弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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文書偽造は何を偽るの?−書換え問題を考えてみる

私は弁護士になる前にとある民間企業に勤めていたのですが、すべての決裁が終わった決裁文書を事後的に修正して入れ替えるなど、かなりマジな違法行為であることは従業員全員が当然の前提としていたように思われます。

しかし、そもそも今回の書換えというのはどのような犯罪になり得るのか?については悩ましいものが有ります。

「文書偽造」という犯罪は、例えば有印公文書偽造・変造罪として、

刑法154条1項「行使の目的で、公務所若しくは公務員の印章…を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造し、又は偽造した…公務員の印章…を使用して公務所若しくは公務員の作成すべき文書若しくは図画を偽造した者は、一年以上十年以下の懲役に処する。」

と定められています。

ここで大事なのは、一般のイメージとは異なり「偽造」とは「作成名義を偽る」ことを指し、内容が虚偽かどうかは問われません。簡単に言うと、AさんがBさんの名前で文書を作る、のが刑法上の偽造だということです。

これは、文書の作成名義さえ正しければ、内容が虚偽であったことの責任を作成名義人に追及(通常は民事訴訟によるでしょう)すれば、被害を回復できますが、作成名義を偽られると、真の作成者(犯人)の名前は文書のどこにも出てきませんから、責任追及がとても難しくなります。そのため、刑法は文書の信用性を担保するために、最低限作成名義を偽る行為を「偽造」として刑事罰を科して抑制しているわけです。これを「有形偽造」と言ったりします。

私文書においては、医師の診断書等を除き、文書偽造罪は有形偽造しか罰せられません。被害の回復方法=民事訴訟は正に私人間の争いを解決するための制度なので、内容虚偽は民事訴訟に任せてしまう、ということです。

しかし、公務所や公務員が作成する文書はそうはいきません。公的文書が発信されると、それを基礎に役所が動き、更に行政文書が作られて別の処分となり・・・というような連鎖が続きますし、各種の証明書を考えればわかるとおり、一般社会での公文書の信頼性は高いため、被害が私文書よりはるかに広がりがちです。

そのため、公文書については虚偽公文書作成罪として、

刑法156条「公務員が、その職務に関し、行使の目的で、虚偽の文書若しくは図画を作成し、又は文書若しくは図画を変造したときは、印章又は署名の有無により区別して、前二条の例による。」

 

 と定められて、作成名義を偽らずに(=有形偽造なしに)内容虚偽の公文書を作成することも有形偽造と同じ法定刑で罰せられます。これを無形偽造と言ったりします。

さて、上記規定を前提としつつ、各種報道を基に今回の書換え問題を考えると以下のようになるように思われます(ただし、報道が断片的な上、全てが真実かどうか不明ですので、あくまで仮定のお話です)。

大前提として、上記規定からわかるとおり、公文書偽造罪、虚偽公文書作成罪は10年以下の懲役という非常に重い刑罰が課される重罪です。

今回財務省が書換えを認める方針と報道される文書は財務省(近畿財務局)において、森友学園との契約を決める決裁文書のようです。

通常、決裁文書は、一番下位の者=起案者の印鑑からはじまり、順次上位の者が当該契約をOKと判断する旨を表示する(決裁する)ために印鑑を押していくものです。したがって、文書に印鑑を押した者全員の契約OKの意思=決裁がなされていますので、印鑑を押した決裁者全員が「作成権限者」と考えるのが自然です。

そして、3月9日の産経新聞の報道によると「財務省の説明では、同省近畿財務局で決裁に関わった27人にヒアリングしたところ、全員が決裁後の書き換えを否定した。」ということですので、書換えは決裁者以外の者が行ったということになります。そうすると、決裁者以外の者が決裁者名義の文書を作成したことになり、有形偽造が行われた、つまり書換え者に公文書偽造罪が成立することになりそうです。

ただ、官庁の文書の究極的な決裁者はそのトップである、つまりトップの決裁があればその他の者の「決裁」は内部手続事項であり、法的な作成権限はトップにのみある、だからトップの許可(決裁)があれば事後的な書換えは公文書偽造にあたらない、という「強弁」はあるかもしれません(私個人は相当に無理な解釈だと思います)。

しかし、その場合でも書換え後の文書は本来の決裁者達は現実には決裁していない(だからこそ決裁後の書換えを否定している)のですから、「決裁者が決裁した文書」という内容は虚偽ですので、虚偽公文書作成罪が成立する可能性は十分にあります。

もちろん、今回の事件でのトップとは麻生財務大臣であり、麻生氏が書換えを指示・決裁していたとしたら、非常に大きな政治責任を問われ、おそらくは内閣が吹っ飛びます。

仮に産経新聞の報道が間違っていた=決裁者が書換えを行っていたとしても、決裁者全員が書換えを決済していない限り公文書偽造になると思われます。決裁者全員で書換えを行っていたとしても、少なくとも決裁日、決裁番号については内容虚偽となりますし、前の文書が本来の決裁文書であることに変わりはありませんので、それを内容の異なる書換え後の文書はやはり内容虚偽となり、結局虚偽公文書作成罪が成立する可能性があります(この点は、書換えの内容によります)。

今回の書換え問題は、文書偽造罪、虚偽公文書作成罪という重罪と、恐ろしく大きな政治責任が絡んでいる、という視点をもって推移を見守ることはわが国の政治を考える上で、有益だと思います。

 

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間接的安楽死・尊厳死・積極的安楽死−ぐちゃぐちゃな議論をしないために

安楽死を短絡的に、『役に立たなくなった人は死ねということか』という議論に結びつける」ほど短絡的かはともかく、橋田壽賀子氏が言うように安楽死についての日本の議論は「ぐちゃぐちゃ」感が否めません。

 そこで今回、法的な議論としての安楽死について少し整理してみたいと思います。

 まず、安楽死にかかわる法律を確認すると、

刑法202条「…人をその嘱託を受け若しくはその承諾を得て殺した者は、六月以上七年以下の懲役又は禁錮に処する。」

と規定されているように、我が国では人から頼まれて(嘱託を受け)又は承諾を得て相手を死なせることも、嘱託殺人・同意殺人として重く罰せられます。

 つまり、法的な意味での安楽死の議論とは、「安楽死に関与する者をどういう理屈で同意殺人で罰せられないようにするか」ということになります。

 ここで、広い意味で「相手の意思により死なせる」行為をざっくりと3つに分けて議論するのが普通です。

  •  1つ目は「積極的安楽死」であり、薬物の注射等の積極的な行為によって本人を死なせるタイプの安楽死です。
  •  2つ目は「消極的安楽死」であり、これは人工呼吸器の取り外し等、延命治療を中止し、その結果、本人が死亡に至るタイプの安楽死です。
  •  3つ目は「間接的安楽死」であり、苦痛の激しい患者にその緩和のためにモルヒネ等を投与し、その副次的効果として死期が早められるというタイプの安楽死です。

  まず、間接的安楽死は、例えばモルヒネ等の投与から即時・直接に死亡結果が生じる訳ではありません。例えばモルヒネを毎日投与した結果、寿命が2ヶ月ほど短くなったが、その間は苦痛なく過ごせていた、というようなことです。これは、医学の目的が生命の維持だけでなく、苦痛の除去にもあることが明らかな以上、適正な治療行為と言ってよく、本人の同意がある限り、法的な問題はないと考えられます。つまり、日本でも間接的安楽死は認められています。

 次に、消極的安楽死とは、近時は「尊厳死」と言われているものです。消極的安楽死で大事な点は、「患者の死亡を直接的な目的とはしていない」点です。自然な死を迎えたいという尊厳や苦痛の緩和等の他の目的の追及に患者の死期が早まる、という事態が随伴するに過ぎません。この意味では間接的安楽死と構造が共通しています。

 また、延命治療との関係では「医学的に見て無意味な延命治療」という判断はあり得ると考えられ、そうすると治療行為の延長に位置づけられ得る行為でもあります。

 ただ、人工呼吸器の取り外しを考えればわかるとおり、間接的安楽死に比べると死亡結果が直接的に発生することは間違いありません。また、尊厳死の意思を表明していた人が、実際に人工呼吸器を外される等される際には意識が無いことが多いともいえます。更に苦痛緩和ではなく「自然な死」「尊厳ある死」という個々人の信条という個別性高い事情を目的としています。

 したがって、本人の意思、真意の確認は非常に慎重にすべきであり、それが①事前の意思表明で足りるのか?②どの程度の意思表明で尊厳死の意思とするのか?③元気なときの言動から意思を推定することが可能か?④最終判断するのは誰か?等の問題が発生します。

 これらが「尊厳死」にかかわる法的な問題です。

 最後に問題になるのが積極的安楽死です。狭い意味での「安楽死」の問題と言えます。

 これは当該行為から直接・即時に死亡結果が生じますので、刑法に言う「殺した」といいやすい行為です。

 また、積極的・即時的に死を招来するので、医学上の治療行為と言うのは躊躇される行為でもあります。

 更に、積極的安楽死を望む意思と言っても、延命治療の中止の表明である尊厳死の意思表明と異なり、どのような場合に、どのような安楽死行為をとるのか等複雑な意思表明にならざるを得ません。

 したがって、積極的安楽死をどのような場合に、どのような手続きで認めるか、というのは非常に慎重、厳格に考えざるを得ません。

 ちなみに、ある裁判所は、

  1. 患者に耐え難い肉体的苦痛があること
  2. 死期が迫って回避できないこと
  3. 患者が安楽死を希望している意思表示をしていること
  4. 苦痛緩和のための医療上の手段が尽くされ他に代替手段がないこと

を要件に積極的安楽死は許容されるとの判断を示しました。

 これが絶対的基準で無いことはもちろんですが、苦痛の存在、死期の切迫、安楽死の希望、苦痛緩和という安楽死の議論の基本的な視点が提供されており、非常に参考になります。

 以上のように、安楽死についての議論を「ぐちゃぐちゃ」にしないためには、まず、

ⅰ)間接的安楽死

ⅱ)尊厳死(消極的安楽死

ⅲ)積極的安楽死

 の問題に区分して議論することが最低限必要と思われます。ここを混同すると何がなんだか分からなくなります。

 また、議論の基軸としては、積極的安楽死についての裁判例が示した、

a)肉体的苦痛

b)死期の切迫

c)安楽死を希望する意思表示

d)苦痛緩和

 という視点は最低限外さないようにすることが、実りある議論に資するのではないでしょうか。

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職務質問は任意?−行政警察活動の悩ましさ

記事を見る限り、容疑者は職務質問を受け、急いでいたので嫌だったから断った、任意だから断れるはず、というような供述をしているものと思われます。それがなぜナイフを持ち出すということにつながるのかはよくわかりませんが、それはともかく、「職務質問は任意」というのは正しくはありますが、そう単純ではないことを説明したいと思います。

職務質問については、警察官職務執行法に定めがありますが、まず警職法の目的を見てみると、

警職法1条2項「この法律は、警察官が警察法・・・に規定する個人の生命、身体及び財産の保護、犯罪の予防、公安の維持・・・等の職権職務を忠実に遂行するために、必要な手段を定めることを目的とする。」

と定められています。

少しわかりにくいのですが、警察が行う職務の内、既に起きた犯罪の捜査を司法警察活動、現に起こっている犯罪の鎮圧(国民の生命等の安全確保)や犯罪予防を行政警察活動といい、警職法は主に行政警察活動について定めます。

したがって、警職法に定めのある職務質問も基本的には犯罪予防が目的です。具体的な規定を見ると、

警職法2条1項「警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる。」

としており、犯罪を起こしそう、何らか関わっていそうな雰囲気の人物に警察が質問をするわけです。

条文に「停止させて」という文言がありますので、相手が止まらなかった場合にはある程度の有形力(実力)を使って停止させることができます。これは犯罪予防の必要性の高さから警察に認められている権限と考えられます。

もちろん、警職法の目的には、

警職法1条2項「この法律に規定する手段は、前項の目的のため必要な最小の限度において用いるべきものであつて、いやしくもその濫用にわたるようなことがあつてはならない。」

ということが含まれますので、警察官が使える有形力の程度は、①犯罪予防という目的のために、具体的事情(犯罪の起こりそうな程度、起こりそうな犯罪の重大性など)を基礎に②必要でかつ③相当と認められる範囲に限定されます。これは、少なくともまだ犯罪を犯していない人への有形力行使は国民の自由を阻害する面が否定出来ないので、その限度を定めているということになります。

しかし、まったくの「任意」かと言われれば、「停止させて」とある以上、停止させられる=強制されるという側面は大いにあります。

また、「質問」の方法として、

警職法2条2項「その場で前項の質問をすることが本人に対して不利であり、又は交通の妨害になると認められる場合においては、質問するため、その者に附近の警察署、派出所又は駐在所に同行することを求めることができる。」

 

 と定められています(いわゆる「任意同行」の一種です)。

この同行は警察のためだけでなく、周囲の交通等他者の利益保護も含みますので、1項所定の「停止させる」で許容される程度の有形力を行使して、警察署等に連れて行くことが許容されていると考えられます。

そうするとやはり完全に「任意」ではなく、ある程度の強制の要素を含むことになります。

記事の容疑者は結果論とはいえ、バタフライナイフを所持しており、しかも警官に向かって振り回す行為に及んでいますので、職務質問や同行の必要性はあったと推測されます。したがって、当時の状況として、完全な「任意」という状態ではなかったと思われます。

そして、ナイフを出した以上、何らかの加害行為をする可能性が高いと言えるので、

警職法5条「警察官は、犯罪がまさに行われようとするのを認めたときは、その予防のため関係者に必要な警告を発し、又、もしその行為により人の生命若しくは身体に危険が及び、又は財産に重大な損害を受ける虞があつて、急を要する場合においては、その行為を制止することができる。」

ということになり、警官に制止行為をする権限が発生します。

更に警官に抵抗してナイフを振り回しつつ歩き出したのですから、警官に対する公務執行妨害罪(3年以上の懲役、)、他者に対しての傷害罪(15年以下の懲役)を犯す可能性が飛躍的に高まったといえるので、

警職法7条「警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。但し、刑法・・・第三十六条(正当防衛)若しくは同法第三十七条(緊急避難)に該当する場合又は左の各号の一に該当する場合を除いては、人に危害を与えてはならない。

一 死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁こにあたる兇悪な罪を現に犯し、若しくは既に犯したと疑うに足りる充分な理由のある者がその者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し、若しくは逃亡しようとするとき又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき、これを防ぎ、又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合。」

 ということになって、警官は発砲したものと思われます(もちろん、現時点では裁判前であり真実が確定されていないので、断言できません)。

以上のように、「職務質問は任意」「任意同行は任意」というのは、言葉通りに受け取れない要素を含みますし、その後に不穏当な手段で抵抗すれば拳銃の発砲すらも受ける可能性が無いとは言えません。

このような警職法の定めは、国民の自由を守ることと犯罪を予防することという調和するようで、時に対立する要請を微妙に調整する制度、ということになります。

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育休は国益に適う?−休暇制度の多面性

記事の青山アナをめぐって、「民間では考えられない」「6年も育休でその期間の社会保険負担等は育児支援として疑問」等の議論があるようです。この議論の前提にある「育休」とはそもそもなんのための制度か?を確認することはこの問題を越えて我が国の労働制度や国の発展を考える上でとても有益です。

育休というのは、「育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」(育児介護休業法)に定められている制度です。そして育児休業等の目的については、

育児介護休業法1条「この法律は、育児休業及び介護休業に関する制度並びに子の看護休暇及び介護休暇に関する制度を設けるとともに、子の養育及び家族の介護を容易にするため所定労働時間等に関し事業主が講ずべき措置を定めるほか、子の養育又は家族の介護を行う労働者等に対する支援措置を講ずること等により、子の養育又は家族の介護を行う労働者等の雇用の継続及び再就職の促進を図り、もってこれらの者の職業生活と家庭生活との両立に寄与することを通じて、これらの者の福祉の増進を図り、あわせて経済及び社会の発展に資することを目的とする。」

としています。

この規定からは育児・介護休業の目的は

・養育者・介護者の雇用継続、再就職

→養育者・介護者の職業生活と家庭生活の両立

→養育者・介護者の福祉の増進

+経済及び社会の発展に資すること

 です。

つまり、育児休業等は養育者、介護者の福祉だけでなく、経済及び社会の発展に資することという国益、公益目的を有していることがわかります。

この点は実は11月に説明した「子を育てるのは親の責任」という話と少し絡みます。

子を育てるのは親の責任、すなわち国(や社会全体)は子を育てる義務や責任は無く、子育て責任者である親を補助・援助するだけというのが我が国の法制度です(この是非はここでは議論しません)。

他方、介護については下記の規定が参考になります。

民法730条「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない。」

民法877条1項「直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。」

民法752条「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」

 これらの規定からは、誰かが病気に倒れたりする等により、生活に困った場合には、配偶者及び親族が面倒を見るのが我が国の仕組みということになります。もちろん、上記規定は主として経済的側面を定めた規定ではありますが、要介護状態となり生活できない人を施設に入れてその費用を親族が扶助するという話になると、じゃあ自宅介護をするか?という話につながるわけです。

つまり、我が国では育児にしろ介護にしろ責任者は親や配偶者や子といった親族(=個人)であって、国や社会全体はその責任を負いません。子供、被介護者、養育者、介護者に補助ないし援助するのみです(この是非は今回は論じません)。

他方で、国というのは国民が働き、稼ぐことで経済を繁栄させ、そこから税金を徴収して国家運営を行います。反対に税金で運営される国の様々な活動により国民が利益を受ける、という関係にあります。

そうすると、国民が働き稼ぐことは国家にとっても国民・社会全体にとっても死活的に重要です。このことは憲法にも如実に現れており、

憲法27条1項「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」

とされています。

さて、自分の子供を育てたり、親族を介護したりといったことは、少なくともそれそのものからは「稼ぎ」は生まれません。むしろ、育児や介護中に労働して稼ぐ機会を失っているといえます。

そうすると、育児・介護の責任をその親族という個人に負わせる一方、それらの人を含む国民が働き稼ぐことが国や社会全体の利益になる、というのはそのままの状態では両立しません。したがって、かなり強力な調整のための制度が必要となります。

その制度の1つが育児休業・介護休業です。つまり、

育児や介護の責任及び主たる負担は親・配偶者・子に負わせつつ、

社会保険料等を免除したり、雇用の確保をしたりして、育児者・介護者が再び働き稼いで国家に納税するよう誘導し、

それにかかる負担の一部を国(社会全体)と介護者等を雇用する企業に分担させる

という制度を構築している、ということになります。

これが育児介護休業法及び育児休業の「公益性」です。

国家の人口を「維持」するために必要な合計特殊出生率(1人の女性が一生の内に出産する子どもの平均数)は2.07程度とされていますが、現在の我が国の合計特殊出生率は1.44程度です。人口減、少子高齢化がかなりのスピードで進んでいるため、労働力不足もどんどん深刻となります。つまり、働き稼いで納税する人がとどんどん減っているのであり、国家運営のため育児者・介護者を復職させて再度稼いで納税させる必要性が今後益々高まります。

 そのような状況を頭に置いた上で、

親・子・配偶者等の親族・個人に育児・介護の責任を負わせつつ、

国家が援助・補助するという仕組みをとり、

しかもより多くの国民が働き稼いで納税しなければならない

とすれば、具体的な制度をどのようにすべきか?

という視点で、育児介護休業の公益性に想いを致して、記事のような問題を考えることが有益で重要なのではないかと思います。

 

www.hochi.co.jp

死刑の「基準」と「罪を憎んで人を憎まず」の関係?−永山基準について

死刑は我が国で最も重い刑罰であり、しかも人の人生そのもの終わらせる、生命を奪う刑罰です。したがって、決して軽々に科すべき刑罰ではありません。近時、大きな事件があるとすぐに「死刑にしてしまえ」のような言葉をネットに書く人がいますが、死刑という刑罰の重み、厳粛さ、その背景にある生命の大事さ、尊厳をわかっていない非常に軽薄な言説と言えます。

裁判においても、犯罪がいかに重大であっても、死刑に処すか否かは厳密に審理されます。この死刑に処すか否かについてマスコミでよく取り上げられるのがいわゆる「永山基準」です。

永山基準とは、犯行当時19歳の永山則夫元死刑囚が拳銃で4人を射殺して強盗殺人等を犯した事件で、第一次控訴審判決が無期懲役としたのを最高裁が破棄して高等裁判所に差し戻した際に

「死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大あつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。」

と判示したものです。

上記引用をみてわかるとおり、「●●と▲▲が満たされれば、死刑に処す」という図式の「基準」ではなく、死刑に処すか否かを判断する際の「考慮要素」を示したものです。

ここでは、

①犯行の罪質

②動機

③犯行態様、特に殺害手段の執拗性・残虐性

④結果の重大性、特に殺害された被害者の人数

⑤遺族の被害感情

⑥社会的影響

⑦犯人の年齢

⑧前科の有無

⑨犯行後の情状

が挙げられています。

一般の人にとってわかりにくいのは、上記9項目にはそれぞれ重み付けに差がある、ということです(この意味で上記を「基準」と呼ぶのはわかりにくさを増すだけだと思います)。

死刑事件に限らず、刑事裁判の量刑がどのように決められるのかは2つの軸から考えるとわかりやすいと思います。

まず、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が示唆するとおり、量刑で最も重視されるべきは「罪」そのものですので、「犯罪そのものの『悪さ度合い』」が量刑を決める1つ目の軸になります。したがって、上記9項目の中でも犯罪のⅰ)「悪さ度合い」を示す要素であればあるほど重視されます。

次に、裁判は人の利益を奪うものであり、特に刑事裁判とりわけ死刑判決は被告人の生命まで奪うものですから、その判断は「手堅く」行われなければなりません。したがって、ある事実の存否の「可能性の高低しかわからない」ものより、「あるか無いかはっきりわかっている」事実をより重視すべきといえます。言い換えるとⅱ)「目に見える事情」かどうかが2つ目の軸になります。したがって、上記9項目の中でも目に見える要素ほど重視されます。

この2つの軸で考えると、①罪質、③残虐性等の犯行態様、④殺害人数等結果の重大性は、ⅰ)悪さ度合いそのものを示す事情ですし、ⅱ)事実の存否がはっきりわかる「目に見える」事情です。したがって、量刑にあたって非常に重視されます。今回執行された犯罪も①強盗殺人を含む重い罪質であり、③犯行態様は非常に残虐であり、④4人も殺害されている点が非常に重視されており、非常に重い量刑となるのが原則だったと考えられます。

 次に、②動機はⅱ)目には見えやすいかどうかは事案によりますが、犯行そのものにかかわるのでⅰ)悪さ度合いはある程度示す事情です。今回の事件でも金銭・強姦目的が認定され、刑を重くする事情としてそれなりに重視されています。

 ⑤遺族の被害感情は、殺人事件では殺害された被害者自身の被害感情を代弁するものです。そして、被害感情はまさに犯行そのものから発生した一種の「結果」ですので、ⅰ)悪さ度合いを示しますし、ⅱ)目に見えにくいわけではなく、やはり重視されます。

 その他の事情の内、よく話題になる「本人の反省・更生可能性」について説明すると、まず犯行の後に本人が反省しようと更生しようと、犯行そのもののⅰ)悪さ度合いには変わりがありません。また、死刑判決も予想される中で被告人が本当に「反省」しているのかをはっきり判断することは困難でありⅱ)目に見えにくい事情です。更生可能性に至っては一種の未来予測なので益々ⅱ)目に見えにくい事情です。したがって、量刑に与える影響は限定的です。

ただ、死刑事件について上記永山基準最高裁

「極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」

との表現を使っていることからわかるとおり、冒頭に書いた死刑の持つ重み、厳粛さからは「死刑か否かギリギリの判断」を迫られる事例が多いのは当然です。そのため、量刑への影響は限定的であっても、反省や更生可能性を考慮せざるを得ないという面があります。

www.nikkei.com

最高裁は国会任せ?−合憲判決と国会の関係

前回NHKとの契約強制について投稿したところ、「NHKも結局民法と同様の原理で番組を作っているのでは?」というご指摘をいただきました。この点については、一般の方が抱く「合憲判決」「違憲判決」のイメージが実際のそれとは異なっているのかもしれないと思いますので、今回の判決文を使いながら説明したいと思います。

今回の判決ではNHKとの契約強制について定める放送法64条1項が憲法に適合するか否か=合憲か違憲かが判断されていますが、最高裁の問題の立て方に注意が必要です。判決文に上記問題について

放送法が…受信料により確保するものとしていることが憲法上許容されるかという問題であり…」

と書いてあるように、最高裁放送法64条1項が憲法上「許容されるか」という点について判断しているのです。

少しわかりにくいかもしれませんが、これは中学校で習う「国会が法律を作り、行政がそれを執行し、司法が適用をめぐる紛争を解決する」という三権分立及び裁判所と国会の能力に関連する話です。

まず、我が国では国民による選挙により国会議員が選ばれ、その議員が国会で審議して法律を作ります。国民の選挙で選ばれた国会議員が、国会で多数決で法律を定めるのですから法律というのはとても「民主的」なわけです。

他方で、裁判所の構成員である裁判官は選挙で選ばれたわけではなく、裁判官が選挙で選ばれた国会議員が国会で多数決で定めた法律を「憲法に違反する」としてその効力を否定するのはとても「非民主的」ということになります。

したがって、裁判所は国会で定められた民主的な法律については軽々に「違憲だ」と一刀両断すべきではなく、「基本的人権を守る」ためにやむを得ない場合に限り、法律が憲法に反するとの判断をすべきだ、と考えられています。

次に、国会と裁判所の能力の問題があります。前回説明したとおり、放送法が放送を規制する目的は憲法上の基本的人権である表現の自由の実質的な確保を通じた民主主義の健全な発展ですので、もちろん憲法に反するわけではありません。

しかし、憲法上の権利の確保が目的であっても、今回の判決文にあるとおり、

「具体的にいかなる制度を構築するのが適切であるかについて は,憲法上一義的に定まるものではなく」

というのは当然です。同じ目的を達成するにもその手段=規制方法は多種多様に考えられるぞ、ということです。

そして、たくさんの選択肢からよりよいものを選ぶ能力は国会と裁判所では比較にならないほど国会が優れています。ちょっと考えるだけでも、裁判所は当事者が提出した証拠しか判断材料がありませんが、国会議員は各々政務調査を行い資料を収集していますし、内閣を通じて官公庁が集めた資料も利用できます。更に与野党の議員による「討論」や内閣等行政への「質問」を通じてそれぞれの選択肢について意見を交換し、更によい選択肢を生み出すことすらできます。

したがって、今回の判決が言うとおり、

憲法21条の趣旨を具体化する前記の放 送法の目的を実現するのにふさわしい制度を,国会において検討して定めることと なり,そこには,その意味での立法裁量が認められてしかるべきであるといえる。 」

ということになります。

つまり、ⅰ)民主的な法律を裁判所が違憲とするのは限定的であるべきという考え方とⅱ)国会の方が選択の能力があるという考え方からは、

国会が選択できる規制には幅=立法裁量がある

と考えられることになります。

裁判所はこの幅=立法裁量を超える規制がなされた場合に当該法律を「憲法違反」として効力を否定する役割を担うわけです。

これは言い換えると裁判所の個々の法律(規制)に対する判断には、

憲法上要請されている

憲法で否定されている

憲法上要請されていないけど、否定はされていない

 という3つのカテゴリーがあって、①だけでなく③も合憲であるとされているということです。

そして、③については立法裁量の範囲内の事柄は司法ではなく国会で議論し、必要ならばこれまた立法裁量の範囲内で改正等せよ、と裁判所は言っていることになります。

本件でも表現の自由の確保のため、異なる原理で運営される複数の放送を確保するという手段は「立法裁量の範囲内」と判断されたのですから、「実際には異なる原理になっていないのではないか?」「他にもっとよい規制方法があるのではないか?」といったような話は裁判所ではなく、国会で行うということになります。したがって、強制徴収がおかしいと考える人は放送法64条の改正を国会議員に働きかけ、働きかけを受け入れた人に投票する、ということになります。

gendai.ismedia.jp

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