弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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職務質問は任意?−行政警察活動の悩ましさ

記事を見る限り、容疑者は職務質問を受け、急いでいたので嫌だったから断った、任意だから断れるはず、というような供述をしているものと思われます。それがなぜナイフを持ち出すということにつながるのかはよくわかりませんが、それはともかく、「職務質問は任意」というのは正しくはありますが、そう単純ではないことを説明したいと思います。

職務質問については、警察官職務執行法に定めがありますが、まず警職法の目的を見てみると、

警職法1条2項「この法律は、警察官が警察法(昭和二十九年法律第百六十二号)に規定する個人の生命、身体及び財産の保護、犯罪の予防、公安の維持並びに他の法令の執行等の職権職務を忠実に遂行するために、必要な手段を定めることを目的とする。」

と定められています。

少しわかりにくいのですが、警察が行う職務の内、既に起きた犯罪の捜査を司法警察活動、現に起こっている犯罪の鎮圧(国民の生命等の安全確保)や犯罪予防を行政警察活動といい、警職法は主に行政警察活動について定めます。

したがって、警職法に定めのある職務質問も基本的には犯罪予防が目的です。具体的な規定を見ると、

警職法2条1項「警察官は、異常な挙動その他周囲の事情から合理的に判断して何らかの犯罪を犯し、若しくは犯そうとしていると疑うに足りる相当な理由のある者又は既に行われた犯罪について、若しくは犯罪が行われようとしていることについて知つていると認められる者を停止させて質問することができる。」

としており、犯罪を起こしそう、何らか関わっていそうな雰囲気の人物に警察が質問をするわけです。

条文に「停止させて」という文言がありますので、相手が止まらなかった場合にはある程度の有形力(実力)を使って停止させることができます。これは犯罪予防の必要性の高さから警察に認められている権限と考えられます。

もちろん、警職法の目的には、

警職法1条2項「この法律に規定する手段は、前項の目的のため必要な最小の限度において用いるべきものであつて、いやしくもその濫用にわたるようなことがあつてはならない。」

ということが含まれますので、警察官が使える有形力の程度は、①犯罪予防という目的のために、具体的事情(犯罪の起こりそうな程度、起こりそうな犯罪の重大性など)を基礎に②必要でかつ③相当と認められる範囲に限定されます。これは、少なくともまだ犯罪を犯していない人への有形力行使は国民の自由を阻害する面が否定出来ないので、その限度を定めているということになります。

しかし、まったくの「任意」かと言われれば、「停止させて」とある以上、停止させられる=強制されるという側面は大いにあります。

また、「質問」の方法として、

警職法2条2項「その場で前項の質問をすることが本人に対して不利であり、又は交通の妨害になると認められる場合においては、質問するため、その者に附近の警察署、派出所又は駐在所に同行することを求めることができる。」

 

 と定められています(いわゆる「任意同行」の一種です)。

この同行は警察のためだけでなく、周囲の交通等他者の利益保護も含みますので、1項所定の「停止させる」で許容される程度の有形力を行使して、警察署等に連れて行くことが許容されていると考えられます。

そうするとやはり完全に「任意」ではなく、ある程度の強制の要素を含むことになります。

記事の容疑者は結果論とはいえ、バタフライナイフを所持しており、しかも警官に向かって振り回す行為に及んでいますので、職務質問や同行の必要性はあったと推測されます。したがって、当時の状況として、完全な「任意」という状態ではなかったと思われます。

そして、ナイフを出した以上、何らかの加害行為をする可能性が高いと言えるので、

警職法5条「警察官は、犯罪がまさに行われようとするのを認めたときは、その予防のため関係者に必要な警告を発し、又、もしその行為により人の生命若しくは身体に危険が及び、又は財産に重大な損害を受ける虞があつて、急を要する場合においては、その行為を制止することができる。」

ということになり、警官に制止行為をする権限が発生します。

更に警官に抵抗してナイフを振り回しつつ歩き出したのですから、警官に対する公務執行妨害罪(3年以上の懲役、)、他者に対しての傷害罪(15年以下の懲役)を犯す可能性が飛躍的に高まったといえるので、

警職法7条「警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。但し、刑法(明治四十年法律第四十五号)第三十六条(正当防衛)若しくは同法第三十七条(緊急避難)に該当する場合又は左の各号の一に該当する場合を除いては、人に危害を与えてはならない。

一 死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁こにあたる兇悪な罪を現に犯し、若しくは既に犯したと疑うに足りる充分な理由のある者がその者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し、若しくは逃亡しようとするとき又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき、これを防ぎ、又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合。」

 ということになって、警官は発砲したものと思われます(もちろん、現時点では裁判前であり真実が確定されていないので、断言できません)。

以上のように、「職務質問は任意」「任意同行は任意」というのは、言葉通りに受け取れない要素を含みますし、その後に不穏当な手段で抵抗すれば拳銃の発砲すらも受ける可能性が無いとは言えません。

このような警職法の定めは、国民の自由を守ることと犯罪を予防することという調和するようで、時に対立する要請を微妙に調整する制度、ということになります。

headlines.yahoo.co.jp

育休は国益に適う?−休暇制度の多面性

記事の青山アナをめぐって、「民間では考えられない」「6年も育休でその期間の社会保険負担等は育児支援として疑問」等の議論があるようです。この議論の前提にある「育休」とはそもそもなんのための制度か?を確認することはこの問題を越えて我が国の労働制度や国の発展を考える上でとても有益です。

育休というのは、「育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」(育児介護休業法)に定められている制度です。そして育児休業等の目的については、

育児介護休業法1条「この法律は、育児休業及び介護休業に関する制度並びに子の看護休暇及び介護休暇に関する制度を設けるとともに、子の養育及び家族の介護を容易にするため所定労働時間等に関し事業主が講ずべき措置を定めるほか、子の養育又は家族の介護を行う労働者等に対する支援措置を講ずること等により、子の養育又は家族の介護を行う労働者等の雇用の継続及び再就職の促進を図り、もってこれらの者の職業生活と家庭生活との両立に寄与することを通じて、これらの者の福祉の増進を図り、あわせて経済及び社会の発展に資することを目的とする。」

としています。

この規定からは育児・介護休業の目的は

・養育者・介護者の雇用継続、再就職

→養育者・介護者の職業生活と家庭生活の両立

→養育者・介護者の福祉の増進

+経済及び社会の発展に資すること

 です。

つまり、育児休業等は養育者、介護者の福祉だけでなく、経済及び社会の発展に資することという国益、公益目的を有していることがわかります。

この点は実は11月に説明した「子を育てるのは親の責任」という話と少し絡みます。

子を育てるのは親の責任、すなわち国(や社会全体)は子を育てる義務や責任は無く、子育て責任者である親を補助・援助するだけというのが我が国の法制度です(この是非はここでは議論しません)。

他方、介護については下記の規定が参考になります。

民法730条「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない。」

民法877条1項「直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある。」

民法752条「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」

 これらの規定からは、誰かが病気に倒れたりする等により、生活に困った場合には、配偶者及び親族が面倒を見るのが我が国の仕組みということになります。もちろん、上記規定は主として経済的側面を定めた規定ではありますが、要介護状態となり生活できない人を施設に入れてその費用を親族が扶助するという話になると、じゃあ自宅介護をするか?という話につながるわけです。

つまり、我が国では育児にしろ介護にしろ責任者は親や配偶者や子といった親族(=個人)であって、国や社会全体はその責任を負いません。子供、被介護者、養育者、介護者に補助ないし援助するのみです(この是非は今回は論じません)。

他方で、国というのは国民が働き、稼ぐことで経済を繁栄させ、そこから税金を徴収して国家運営を行います。反対に税金で運営される国の様々な活動により国民が利益を受ける、という関係にあります。

そうすると、国民が働き稼ぐことは国家にとっても国民・社会全体にとっても死活的に重要です。このことは憲法にも如実に現れており、

憲法27条1項「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」

とされています。

さて、自分の子供を育てたり、親族を介護したりといったことは、少なくともそれそのものからは「稼ぎ」は生まれません。むしろ、育児や介護中に労働して稼ぐ機会を失っているといえます。

そうすると、育児・介護の責任をその親族という個人に負わせる一方、それらの人を含む国民が働き稼ぐことが国や社会全体の利益になる、というのはそのままの状態では両立しません。したがって、かなり強力な調整のための制度が必要となります。

その制度の1つが育児休業・介護休業です。つまり、

育児や介護の責任及び主たる負担は親・配偶者・子に負わせつつ、

社会保険料等を免除したり、雇用の確保をしたりして、育児者・介護者が再び働き稼いで国家に納税するよう誘導し、

それにかかる負担の一部を国(社会全体)と介護者等を雇用する企業に分担させる

という制度を構築している、ということになります。

これが育児介護休業法及び育児休業の「公益性」です。

国家の人口を「維持」するために必要な合計特殊出生率(1人の女性が一生の内に出産する子どもの平均数)は2.07程度とされていますが、現在の我が国の合計特殊出生率は1.44程度です。人口減、少子高齢化がかなりのスピードで進んでいるため、労働力不足もどんどん深刻となります。つまり、働き稼いで納税する人がとどんどん減っているのであり、国家運営のため育児者・介護者を復職させて再度稼いで納税させる必要性が今後益々高まります。

 そのような状況を頭に置いた上で、

親・子・配偶者等の親族・個人に育児・介護の責任を負わせつつ、

国家が援助・補助するという仕組みをとり、

しかもより多くの国民が働き稼いで納税しなければならない

とすれば、具体的な制度をどのようにすべきか?

という視点で、育児介護休業の公益性に想いを致して、記事のような問題を考えることが有益で重要なのではないかと思います。

 

www.hochi.co.jp

死刑の「基準」と「罪を憎んで人を憎まず」の関係?−永山基準について

死刑は我が国で最も重い刑罰であり、しかも人の人生そのもの終わらせる、生命を奪う刑罰です。したがって、決して軽々に科すべき刑罰ではありません。近時、大きな事件があるとすぐに「死刑にしてしまえ」のような言葉をネットに書く人がいますが、死刑という刑罰の重み、厳粛さ、その背景にある生命の大事さ、尊厳をわかっていない非常に軽薄な言説と言えます。

裁判においても、犯罪がいかに重大であっても、死刑に処すか否かは厳密に審理されます。この死刑に処すか否かについてマスコミでよく取り上げられるのがいわゆる「永山基準」です。

永山基準とは、犯行当時19歳の永山則夫元死刑囚が拳銃で4人を射殺して強盗殺人等を犯した事件で、第一次控訴審判決が無期懲役としたのを最高裁が破棄して高等裁判所に差し戻した際に

「死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大あつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものといわなければならない。」

と判示したものです。

上記引用をみてわかるとおり、「●●と▲▲が満たされれば、死刑に処す」という図式の「基準」ではなく、死刑に処すか否かを判断する際の「考慮要素」を示したものです。

ここでは、

①犯行の罪質

②動機

③犯行態様、特に殺害手段の執拗性・残虐性

④結果の重大性、特に殺害された被害者の人数

⑤遺族の被害感情

⑥社会的影響

⑦犯人の年齢

⑧前科の有無

⑨犯行後の情状

が挙げられています。

一般の人にとってわかりにくいのは、上記9項目にはそれぞれ重み付けに差がある、ということです(この意味で上記を「基準」と呼ぶのはわかりにくさを増すだけだと思います)。

死刑事件に限らず、刑事裁判の量刑がどのように決められるのかは2つの軸から考えるとわかりやすいと思います。

まず、「罪を憎んで人を憎まず」という言葉が示唆するとおり、量刑で最も重視されるべきは「罪」そのものですので、「犯罪そのものの『悪さ度合い』」が量刑を決める1つ目の軸になります。したがって、上記9項目の中でも犯罪のⅰ)「悪さ度合い」を示す要素であればあるほど重視されます。

次に、裁判は人の利益を奪うものであり、特に刑事裁判とりわけ死刑判決は被告人の生命まで奪うものですから、その判断は「手堅く」行われなければなりません。したがって、ある事実の存否の「可能性の高低しかわからない」ものより、「あるか無いかはっきりわかっている」事実をより重視すべきといえます。言い換えるとⅱ)「目に見える事情」かどうかが2つ目の軸になります。したがって、上記9項目の中でも目に見える要素ほど重視されます。

この2つの軸で考えると、①罪質、③残虐性等の犯行態様、④殺害人数等結果の重大性は、ⅰ)悪さ度合いそのものを示す事情ですし、ⅱ)事実の存否がはっきりわかる「目に見える」事情です。したがって、量刑にあたって非常に重視されます。今回執行された犯罪も①強盗殺人を含む重い罪質であり、③犯行態様は非常に残虐であり、④4人も殺害されている点が非常に重視されており、非常に重い量刑となるのが原則だったと考えられます。

 次に、②動機はⅱ)目には見えやすいかどうかは事案によりますが、犯行そのものにかかわるのでⅰ)悪さ度合いはある程度示す事情です。今回の事件でも金銭・強姦目的が認定され、刑を重くする事情としてそれなりに重視されています。

 ⑤遺族の被害感情は、殺人事件では殺害された被害者自身の被害感情を代弁するものです。そして、被害感情はまさに犯行そのものから発生した一種の「結果」ですので、ⅰ)悪さ度合いを示しますし、ⅱ)目に見えにくいわけではなく、やはり重視されます。

 その他の事情の内、よく話題になる「本人の反省・更生可能性」について説明すると、まず犯行の後に本人が反省しようと更生しようと、犯行そのもののⅰ)悪さ度合いには変わりがありません。また、死刑判決も予想される中で被告人が本当に「反省」しているのかをはっきり判断することは困難でありⅱ)目に見えにくい事情です。更生可能性に至っては一種の未来予測なので益々ⅱ)目に見えにくい事情です。したがって、量刑に与える影響は限定的です。

ただ、死刑事件について上記永山基準最高裁

「極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される」

との表現を使っていることからわかるとおり、冒頭に書いた死刑の持つ重み、厳粛さからは「死刑か否かギリギリの判断」を迫られる事例が多いのは当然です。そのため、量刑への影響は限定的であっても、反省や更生可能性を考慮せざるを得ないという面があります。

www.nikkei.com

最高裁は国会任せ?−合憲判決と国会の関係

前回NHKとの契約強制について投稿したところ、「NHKも結局民法と同様の原理で番組を作っているのでは?」というご指摘をいただきました。この点については、一般の方が抱く「合憲判決」「違憲判決」のイメージが実際のそれとは異なっているのかもしれないと思いますので、今回の判決文を使いながら説明したいと思います。

今回の判決ではNHKとの契約強制について定める放送法64条1項が憲法に適合するか否か=合憲か違憲かが判断されていますが、最高裁の問題の立て方に注意が必要です。判決文に上記問題について

放送法が…受信料により確保するものとしていることが憲法上許容されるかという問題であり…」

と書いてあるように、最高裁放送法64条1項が憲法上「許容されるか」という点について判断しているのです。

少しわかりにくいかもしれませんが、これは中学校で習う「国会が法律を作り、行政がそれを執行し、司法が適用をめぐる紛争を解決する」という三権分立及び裁判所と国会の能力に関連する話です。

まず、我が国では国民による選挙により国会議員が選ばれ、その議員が国会で審議して法律を作ります。国民の選挙で選ばれた国会議員が、国会で多数決で法律を定めるのですから法律というのはとても「民主的」なわけです。

他方で、裁判所の構成員である裁判官は選挙で選ばれたわけではなく、裁判官が選挙で選ばれた国会議員が国会で多数決で定めた法律を「憲法に違反する」としてその効力を否定するのはとても「非民主的」ということになります。

したがって、裁判所は国会で定められた民主的な法律については軽々に「違憲だ」と一刀両断すべきではなく、「基本的人権を守る」ためにやむを得ない場合に限り、法律が憲法に反するとの判断をすべきだ、と考えられています。

次に、国会と裁判所の能力の問題があります。前回説明したとおり、放送法が放送を規制する目的は憲法上の基本的人権である表現の自由の実質的な確保を通じた民主主義の健全な発展ですので、もちろん憲法に反するわけではありません。

しかし、憲法上の権利の確保が目的であっても、今回の判決文にあるとおり、

「具体的にいかなる制度を構築するのが適切であるかについて は,憲法上一義的に定まるものではなく」

というのは当然です。同じ目的を達成するにもその手段=規制方法は多種多様に考えられるぞ、ということです。

そして、たくさんの選択肢からよりよいものを選ぶ能力は国会と裁判所では比較にならないほど国会が優れています。ちょっと考えるだけでも、裁判所は当事者が提出した証拠しか判断材料がありませんが、国会議員は各々政務調査を行い資料を収集していますし、内閣を通じて官公庁が集めた資料も利用できます。更に与野党の議員による「討論」や内閣等行政への「質問」を通じてそれぞれの選択肢について意見を交換し、更によい選択肢を生み出すことすらできます。

したがって、今回の判決が言うとおり、

憲法21条の趣旨を具体化する前記の放 送法の目的を実現するのにふさわしい制度を,国会において検討して定めることと なり,そこには,その意味での立法裁量が認められてしかるべきであるといえる。 」

ということになります。

つまり、ⅰ)民主的な法律を裁判所が違憲とするのは限定的であるべきという考え方とⅱ)国会の方が選択の能力があるという考え方からは、

国会が選択できる規制には幅=立法裁量がある

と考えられることになります。

裁判所はこの幅=立法裁量を超える規制がなされた場合に当該法律を「憲法違反」として効力を否定する役割を担うわけです。

これは言い換えると裁判所の個々の法律(規制)に対する判断には、

憲法上要請されている

憲法で否定されている

憲法上要請されていないけど、否定はされていない

 という3つのカテゴリーがあって、①だけでなく③も合憲であるとされているということです。

そして、③については立法裁量の範囲内の事柄は司法ではなく国会で議論し、必要ならばこれまた立法裁量の範囲内で改正等せよ、と裁判所は言っていることになります。

本件でも表現の自由の確保のため、異なる原理で運営される複数の放送を確保するという手段は「立法裁量の範囲内」と判断されたのですから、「実際には異なる原理になっていないのではないか?」「他にもっとよい規制方法があるのではないか?」といったような話は裁判所ではなく、国会で行うということになります。したがって、強制徴収がおかしいと考える人は放送法64条の改正を国会議員に働きかけ、働きかけを受け入れた人に投票する、ということになります。

gendai.ismedia.jp

「見ないから払わない」は正しいか?−表現の自由と放送

記事にある「見ていないのに支払うのはおかしい」という感覚は非常に説得力があり、今回の最高裁判決に反感を持つ人が多いのも当然といえば当然だろうと思います。

ただ、「見たくないから払いたくないvs.法律が合憲だから払うのが当然」というような単純な論争は不毛で無益です。実のある議論をするために、まず一見非常識に見える最高裁判決の理屈を少し知ることは有益だと思います。

今回問題となった放送法の規定は、

放送法64条1項「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。…」

というものであり、テレビを買った者は必ず協会=NHKと契約しなければならない、つまり受信料の支払が強制されていることになります。

契約というのは当事者双方の自由な意思が一致する場合に成立するものですから、テレビを買っただけで契約を強制されて、強制的に受信料を徴収されるというのはある意味矛盾とすら言えます。

今回の訴訟でNHKから受信料を請求された被告はこの規定について、

  1. テレビを買った者全員がNHKを見るわけでは無いのに受信料を強制徴収されるのはおかしいし、受信料を払えない者はテレビを持てず、結果的に民放を観る権利も制約されてしまう
  2. 契約の締結が強制される上、契約内容はNHKが決めるのでテレビ購入者の契約は契約の自由に反する

ということを理由に、放送法64条が憲法13条(幸福追求権)、憲法21条(表現の自由)、憲法29条(財産権の保障)に反する、として受信料支払を拒否したわけです。

ここで、被告が憲法21条が定める表現の自由を挙げているのが1つのポイントです。

表現の自由とは

憲法21条1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

と定められており、「表現する自由」だけでなく「表現を受け取る権利=知る権利」も保障されている、と考えられています。

そうすると、被告の立場からは、

・テレビを買うとNHKから受信料を徴収される
→負担できない者はテレビを買えない
→無料で視聴できる民放も見られない
→民放が行なう表現を受け取れない
→知る権利が侵害されている

ということになります。

この理屈自体は最高裁は否定していません。

実は最高裁判決の理由の柱の1つも表現の自由から出発します。

その理屈を知るため、まず、放送法の目的を見てみると、

放送法1条「この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。」

 この規定は、放送というのは利用できる電波帯が限られるため、書籍等と異なり、「放送を利用した表現者」は少数に限定されるという性質がある一方で、放送は映像という書籍等よりはるかに大きなインパクトを与える表現手段である、ということを反映した規定です。

つまり、有限で少数しか表現することのできない強力な表現手段は、何らかの目的に従った国家の規制の下で利用されるべきだ、ということです。

そして、その目的とは、憲法が重要な価値と定める「表現の自由(=知る権利)を確保する」ことを通じて、「健全な民主主義の発達に資する」ことである、ということを定めている規定です。

この目的に沿って放送を規制する方法(仕掛け)の1つとして放送法は、放送をまず大きく2つに分けます。

それが、

①運営費を広告(CM)等によって賄いつつ、利益を上げる民放

②運営費を国民からの受信料によって賄う公共放送

 になります。

①の放送は、我が国の基本的な政治・経済体制である資本主義ないし市場原理=自由競争の原理の下で運営されることを前提に、不偏不党等の放送法の規制を守らせるという類型です。

②の放送は①と全く逆であり、最初から放送法の目的を課した上で、市場原理や自由競争の原理ではない原理でされる類型です。

このように全く異なる原理の下で運営される複数の類型の放送を確保することで、幅広い放送内容を確保して、国民が幅広い情報を得られるようにする=知る権利、表現の自由を確保しようというのが放送法が定める「仕掛け」です。

ここで②の類型の放送を運営するための「受信料」について「観る人・観たい人だけが支払う」ということにすると、これは市場原理そのものの仕組みとなってしまい、異なる原理で運営される放送を複数確保するという放送法の大きな「仕掛け」に反してしまいます。

つまり、②の類型の受信料は「観るor観ない」「観たいor観たくない」に関わらず、テレビを持っている人全てから一律に徴収されないと、放送法が企てた「仕掛け」が維持できないわけです。

そして、この放送法が企てた仕掛けは

表現の自由=知る権利をよりよく確保するためのものであり、

・引いては我が国の健全な民主主義の発達にも寄与している、

 これが最高裁NHKの受信料強制徴収を合憲と判断した大きな理由の1つです。

これにはもちろん異論があり得ます。しかし、少なくとも「観ない・観たくないから支払わない」というのが絶対の理屈・常識ではないことを知るのは、非常に大事だと思います。

headlines.yahoo.co.jp

味のある最高裁とその限界?−300日問題の解決のヒント−その2

裁判は嫡出推定及び否認制度の合憲性を認めた一方で現行制度での不都合、特に300日問題の解決を立法府に求めたようであり、これはこれで味のある判決だと思います。

さて、前回説明した嫡出否認制度の例外を認めた昭和44年の最高裁判決の味わい深さを考えるために、大事なポイントをあげると

①子が遺伝子上の父に起こした訴訟=戸籍上の父は当事者になっていない

②子が遺伝子上の父に求めたのは認知=父子関係の形成

③訴訟の結果は子の請求を認め、父子関係が形成された=反射的に従来の戸籍上の父は「父」で無くなった

 ということです。

ところで、300日問題が起こる典型的な原因は、戸籍上の夫が子の母に対し暴力を振るういわゆるDVですので、①戸籍上の父を当事者にしないことは、父との接触=暴力の危険を避けられるという当事者にとっては切実な意味があります。

そしてそれが②遺伝子上の父=子の母のパートナー相手の認知訴訟で認められたということが極めて大きな意味があります。

この点を理解するためには「家事事件」の手続きを知る必要があります。

認知請求を含む家事事件については家事事件手続法では

家手法257条1項「…調停を行うことができる事件について訴えを提起しようとする者は、まず家庭裁判所に家事調停の申立てをしなければならない。」

とされており、訴訟前に調停手続きを行うことになります。

調停というのは、話合いの手続きであり、認知調停では当事者である子と認知を求める相手(300日問題との関連では遺伝子上の父)とが話し合うことを意味します。

そして、認知等訴訟が後に控えている調停については

家手法277条1項「…次の各号に掲げる要件のいずれにも該当する場合には、家庭裁判所は、必要な事実を調査した上、第一号の合意を正当と認めるときは、当該合意に相当する審判…をすることができる…一 …合意が成立していること。」

家手法281条「…合意に相当する審判は、確定判決と同一の効力を有する。」

 とされています。

つまり、

・話合い(調停)

→合意成立

→合意内容の正当性を裁判所が調査

→審判

という流れを経ることで、訴訟の判決と同じ効果が得られることになります。

このことと昭和44年の最高裁判決とをまとめて考えると、

・子がその遺伝子上の父に認知を求めて認知調停を申し立てて話合いをする

→調停で遺伝子上の父が子を認知する=子と遺伝子上の父の父子関係を成立させるという「合意」をする

→その認知という合意を裁判所が調査して正当と認めれば

→遺伝子上の父を「法的な父」とし、従来の戸籍上の父との間の嫡出関係=父子関係を否定する審判がされる

ということになります。

まず、少なくとも出産直後には子の母とその新しいパートナー=子の遺伝子上の父とは関係が良好なことが多く、認知調停でも合意できることが多いと思われます(ただ、最高裁の事例は違いました)。

次に、裁判所が調査する「正当性」は、認知調停による父子関係の否定は民法777条の嫡出否認の例外ですので、前回説明したとおり、「父子関係が明らかに無いこと」が中身になると考えられます。

これが昭和44年の最高裁判決の味わい深さであり、数年前に最高裁も明示的に300日問題の解決法の1つとして提示しました。これは

①DVを行なう戸籍上の父を当事者としなくてよく

②認知の合意が得られやすい子の遺伝子上の父との話合いで解決できる

という点で300日問題の解決に非常に役に立ちます。

ただ、もちろん限界があります。

それは「明らかに父子関係が無いこと」をどのように調査するか?という点が不明確であることです。また、この点について法律の条文も最高裁判例も無く、裁判所により扱いが異なることも問題です。

具体的には長期間別居し、明らかに交流が無いこと資料を子(又はその母)が裁判所に提出できれば大体において裁判所は「明らかに父子関係が無い」と認めます。しかし、そういった資料が無い場合には裁判所によっては「戸籍上の父の話も聞く」という調査をする場合があり、そうすると暴力の危険から子(それを援助する母)が調停を取り下げざるを得ないことになりかねない、ということがママあり得ます。

また、前回説明したとおり、認知調停による父子関係の否定が民法777条の例外的場面であるため子と認知を求められている者との間のDNA鑑定が決定的な資料にならないのは、やむを得ないところです。

ただ、そういう限界がありつつも、認知調停による嫡出関係の否定は300日問題の解決のために大いに参考になる考え方だと思われます。

つまり、300日問題やその解決法の提案の是非を考えるにあたって、

上記の認知調停による解決法の改善を図る方向性か?

この方法の発想を基礎に新たな制度を構築する方向なのか?

という視点を持つことが、思考の整理に非常に有益と思われます。

www.kobe-np.co.jp

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