弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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最高裁は国会任せ?−合憲判決と国会の関係

前回NHKとの契約強制について投稿したところ、「NHKも結局民法と同様の原理で番組を作っているのでは?」というご指摘をいただきました。この点については、一般の方が抱く「合憲判決」「違憲判決」のイメージが実際のそれとは異なっているのかもしれないと思いますので、今回の判決文を使いながら説明したいと思います。

今回の判決ではNHKとの契約強制について定める放送法64条1項が憲法に適合するか否か=合憲か違憲かが判断されていますが、最高裁の問題の立て方に注意が必要です。判決文に上記問題について

放送法が…受信料により確保するものとしていることが憲法上許容されるかという問題であり…」

と書いてあるように、最高裁放送法64条1項が憲法上「許容されるか」という点について判断しているのです。

少しわかりにくいかもしれませんが、これは中学校で習う「国会が法律を作り、行政がそれを執行し、司法が適用をめぐる紛争を解決する」という三権分立及び裁判所と国会の能力に関連する話です。

まず、我が国では国民による選挙により国会議員が選ばれ、その議員が国会で審議して法律を作ります。国民の選挙で選ばれた国会議員が、国会で多数決で法律を定めるのですから法律というのはとても「民主的」なわけです。

他方で、裁判所の構成員である裁判官は選挙で選ばれたわけではなく、裁判官が選挙で選ばれた国会議員が国会で多数決で定めた法律を「憲法に違反する」としてその効力を否定するのはとても「非民主的」ということになります。

したがって、裁判所は国会で定められた民主的な法律については軽々に「違憲だ」と一刀両断すべきではなく、「基本的人権を守る」ためにやむを得ない場合に限り、法律が憲法に反するとの判断をすべきだ、と考えられています。

次に、国会と裁判所の能力の問題があります。前回説明したとおり、放送法が放送を規制する目的は憲法上の基本的人権である表現の自由の実質的な確保を通じた民主主義の健全な発展ですので、もちろん憲法に反するわけではありません。

しかし、憲法上の権利の確保が目的であっても、今回の判決文にあるとおり、

「具体的にいかなる制度を構築するのが適切であるかについて は,憲法上一義的に定まるものではなく」

というのは当然です。同じ目的を達成するにもその手段=規制方法は多種多様に考えられるぞ、ということです。

そして、たくさんの選択肢からよりよいものを選ぶ能力は国会と裁判所では比較にならないほど国会が優れています。ちょっと考えるだけでも、裁判所は当事者が提出した証拠しか判断材料がありませんが、国会議員は各々政務調査を行い資料を収集していますし、内閣を通じて官公庁が集めた資料も利用できます。更に与野党の議員による「討論」や内閣等行政への「質問」を通じてそれぞれの選択肢について意見を交換し、更によい選択肢を生み出すことすらできます。

したがって、今回の判決が言うとおり、

憲法21条の趣旨を具体化する前記の放 送法の目的を実現するのにふさわしい制度を,国会において検討して定めることと なり,そこには,その意味での立法裁量が認められてしかるべきであるといえる。 」

ということになります。

つまり、ⅰ)民主的な法律を裁判所が違憲とするのは限定的であるべきという考え方とⅱ)国会の方が選択の能力があるという考え方からは、

国会が選択できる規制には幅=立法裁量がある

と考えられることになります。

裁判所はこの幅=立法裁量を超える規制がなされた場合に当該法律を「憲法違反」として効力を否定する役割を担うわけです。

これは言い換えると裁判所の個々の法律(規制)に対する判断には、

憲法上要請されている

憲法で否定されている

憲法上要請されていないけど、否定はされていない

 という3つのカテゴリーがあって、①だけでなく③も合憲であるとされているということです。

そして、③については立法裁量の範囲内の事柄は司法ではなく国会で議論し、必要ならばこれまた立法裁量の範囲内で改正等せよ、と裁判所は言っていることになります。

本件でも表現の自由の確保のため、異なる原理で運営される複数の放送を確保するという手段は「立法裁量の範囲内」と判断されたのですから、「実際には異なる原理になっていないのではないか?」「他にもっとよい規制方法があるのではないか?」といったような話は裁判所ではなく、国会で行うということになります。したがって、強制徴収がおかしいと考える人は放送法64条の改正を国会議員に働きかけ、働きかけを受け入れた人に投票する、ということになります。

gendai.ismedia.jp

「見ないから払わない」は正しいか?−表現の自由と放送

記事にある「見ていないのに支払うのはおかしい」という感覚は非常に説得力があり、今回の最高裁判決に反感を持つ人が多いのも当然といえば当然だろうと思います。

ただ、「見たくないから払いたくないvs.法律が合憲だから払うのが当然」というような単純な論争は不毛で無益です。実のある議論をするために、まず一見非常識に見える最高裁判決の理屈を少し知ることは有益だと思います。

今回問題となった放送法の規定は、

放送法64条1項「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。…」

というものであり、テレビを買った者は必ず協会=NHKと契約しなければならない、つまり受信料の支払が強制されていることになります。

契約というのは当事者双方の自由な意思が一致する場合に成立するものですから、テレビを買っただけで契約を強制されて、強制的に受信料を徴収されるというのはある意味矛盾とすら言えます。

今回の訴訟でNHKから受信料を請求された被告はこの規定について、

  1. テレビを買った者全員がNHKを見るわけでは無いのに受信料を強制徴収されるのはおかしいし、受信料を払えない者はテレビを持てず、結果的に民放を観る権利も制約されてしまう
  2. 契約の締結が強制される上、契約内容はNHKが決めるのでテレビ購入者の契約は契約の自由に反する

ということを理由に、放送法64条が憲法13条(幸福追求権)、憲法21条(表現の自由)、憲法29条(財産権の保障)に反する、として受信料支払を拒否したわけです。

ここで、被告が憲法21条が定める表現の自由を挙げているのが1つのポイントです。

表現の自由とは

憲法21条1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

と定められており、「表現する自由」だけでなく「表現を受け取る権利=知る権利」も保障されている、と考えられています。

そうすると、被告の立場からは、

・テレビを買うとNHKから受信料を徴収される
→負担できない者はテレビを買えない
→無料で視聴できる民放も見られない
→民放が行なう表現を受け取れない
→知る権利が侵害されている

ということになります。

この理屈自体は最高裁は否定していません。

実は最高裁判決の理由の柱の1つも表現の自由から出発します。

その理屈を知るため、まず、放送法の目的を見てみると、

放送法1条「この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。」

 この規定は、放送というのは利用できる電波帯が限られるため、書籍等と異なり、「放送を利用した表現者」は少数に限定されるという性質がある一方で、放送は映像という書籍等よりはるかに大きなインパクトを与える表現手段である、ということを反映した規定です。

つまり、有限で少数しか表現することのできない強力な表現手段は、何らかの目的に従った国家の規制の下で利用されるべきだ、ということです。

そして、その目的とは、憲法が重要な価値と定める「表現の自由(=知る権利)を確保する」ことを通じて、「健全な民主主義の発達に資する」ことである、ということを定めている規定です。

この目的に沿って放送を規制する方法(仕掛け)の1つとして放送法は、放送をまず大きく2つに分けます。

それが、

①運営費を広告(CM)等によって賄いつつ、利益を上げる民放

②運営費を国民からの受信料によって賄う公共放送

 になります。

①の放送は、我が国の基本的な政治・経済体制である資本主義ないし市場原理=自由競争の原理の下で運営されることを前提に、不偏不党等の放送法の規制を守らせるという類型です。

②の放送は①と全く逆であり、最初から放送法の目的を課した上で、市場原理や自由競争の原理ではない原理でされる類型です。

このように全く異なる原理の下で運営される複数の類型の放送を確保することで、幅広い放送内容を確保して、国民が幅広い情報を得られるようにする=知る権利、表現の自由を確保しようというのが放送法が定める「仕掛け」です。

ここで②の類型の放送を運営するための「受信料」について「観る人・観たい人だけが支払う」ということにすると、これは市場原理そのものの仕組みとなってしまい、異なる原理で運営される放送を複数確保するという放送法の大きな「仕掛け」に反してしまいます。

つまり、②の類型の受信料は「観るor観ない」「観たいor観たくない」に関わらず、テレビを持っている人全てから一律に徴収されないと、放送法が企てた「仕掛け」が維持できないわけです。

そして、この放送法が企てた仕掛けは

表現の自由=知る権利をよりよく確保するためのものであり、

・引いては我が国の健全な民主主義の発達にも寄与している、

 これが最高裁NHKの受信料強制徴収を合憲と判断した大きな理由の1つです。

これにはもちろん異論があり得ます。しかし、少なくとも「観ない・観たくないから支払わない」というのが絶対の理屈・常識ではないことを知るのは、非常に大事だと思います。

headlines.yahoo.co.jp

味のある最高裁とその限界?−300日問題の解決のヒント−その2

裁判は嫡出推定及び否認制度の合憲性を認めた一方で現行制度での不都合、特に300日問題の解決を立法府に求めたようであり、これはこれで味のある判決だと思います。

さて、前回説明した嫡出否認制度の例外を認めた昭和44年の最高裁判決の味わい深さを考えるために、大事なポイントをあげると

①子が遺伝子上の父に起こした訴訟=戸籍上の父は当事者になっていない

②子が遺伝子上の父に求めたのは認知=父子関係の形成

③訴訟の結果は子の請求を認め、父子関係が形成された=反射的に従来の戸籍上の父は「父」で無くなった

 ということです。

ところで、300日問題が起こる典型的な原因は、戸籍上の夫が子の母に対し暴力を振るういわゆるDVですので、①戸籍上の父を当事者にしないことは、父との接触=暴力の危険を避けられるという当事者にとっては切実な意味があります。

そしてそれが②遺伝子上の父=子の母のパートナー相手の認知訴訟で認められたということが極めて大きな意味があります。

この点を理解するためには「家事事件」の手続きを知る必要があります。

認知請求を含む家事事件については家事事件手続法では

家手法257条1項「…調停を行うことができる事件について訴えを提起しようとする者は、まず家庭裁判所に家事調停の申立てをしなければならない。」

とされており、訴訟前に調停手続きを行うことになります。

調停というのは、話合いの手続きであり、認知調停では当事者である子と認知を求める相手(300日問題との関連では遺伝子上の父)とが話し合うことを意味します。

そして、認知等訴訟が後に控えている調停については

家手法277条1項「…次の各号に掲げる要件のいずれにも該当する場合には、家庭裁判所は、必要な事実を調査した上、第一号の合意を正当と認めるときは、当該合意に相当する審判…をすることができる…一 …合意が成立していること。」

家手法281条「…合意に相当する審判は、確定判決と同一の効力を有する。」

 とされています。

つまり、

・話合い(調停)

→合意成立

→合意内容の正当性を裁判所が調査

→審判

という流れを経ることで、訴訟の判決と同じ効果が得られることになります。

このことと昭和44年の最高裁判決とをまとめて考えると、

・子がその遺伝子上の父に認知を求めて認知調停を申し立てて話合いをする

→調停で遺伝子上の父が子を認知する=子と遺伝子上の父の父子関係を成立させるという「合意」をする

→その認知という合意を裁判所が調査して正当と認めれば

→遺伝子上の父を「法的な父」とし、従来の戸籍上の父との間の嫡出関係=父子関係を否定する審判がされる

ということになります。

まず、少なくとも出産直後には子の母とその新しいパートナー=子の遺伝子上の父とは関係が良好なことが多く、認知調停でも合意できることが多いと思われます(ただ、最高裁の事例は違いました)。

次に、裁判所が調査する「正当性」は、認知調停による父子関係の否定は民法777条の嫡出否認の例外ですので、前回説明したとおり、「父子関係が明らかに無いこと」が中身になると考えられます。

これが昭和44年の最高裁判決の味わい深さであり、数年前に最高裁も明示的に300日問題の解決法の1つとして提示しました。これは

①DVを行なう戸籍上の父を当事者としなくてよく

②認知の合意が得られやすい子の遺伝子上の父との話合いで解決できる

という点で300日問題の解決に非常に役に立ちます。

ただ、もちろん限界があります。

それは「明らかに父子関係が無いこと」をどのように調査するか?という点が不明確であることです。また、この点について法律の条文も最高裁判例も無く、裁判所により扱いが異なることも問題です。

具体的には長期間別居し、明らかに交流が無いこと資料を子(又はその母)が裁判所に提出できれば大体において裁判所は「明らかに父子関係が無い」と認めます。しかし、そういった資料が無い場合には裁判所によっては「戸籍上の父の話も聞く」という調査をする場合があり、そうすると暴力の危険から子(それを援助する母)が調停を取り下げざるを得ないことになりかねない、ということがママあり得ます。

また、前回説明したとおり、認知調停による父子関係の否定が民法777条の例外的場面であるため子と認知を求められている者との間のDNA鑑定が決定的な資料にならないのは、やむを得ないところです。

ただ、そういう限界がありつつも、認知調停による嫡出関係の否定は300日問題の解決のために大いに参考になる考え方だと思われます。

つまり、300日問題やその解決法の提案の是非を考えるにあたって、

上記の認知調停による解決法の改善を図る方向性か?

この方法の発想を基礎に新たな制度を構築する方向なのか?

という視点を持つことが、思考の整理に非常に有益と思われます。

www.kobe-np.co.jp

父が決まればいい?−300日問題の解決のヒント−その1

前々回、我が国では子を育てる責任を負うのは親であるという前提の元、我が国の民法は子の福祉及び国家の視点からの要請から、①父を「自動的に決める」②子を育てる責任を容易には免れさせないことを定めており、具体的には

①父子関係と婚姻を結びつけて婚姻中又は婚姻解消後300日以内に産まれた子の父は母の戸籍上の配偶者とされ

②嫡出否認の主張は非常に限定された場合にのみ認める

という嫡出推定制度、嫡出否認制度を設けていることを説明しました。

では、その例外は全く認められないのか?ということが問題になります。

まず、嫡出否認制度について例外が許される場合とその理由を考えてみると

ⅰ)父子関係の当事者たる「父」のみ主張できる⇒子も当事者なので子が主張しても良い?
ⅱ)手段は訴訟⇒訴訟の形態は色々ある。訴訟でありさえすればよい?
ⅲ)一度父子関係を認めたら否認主張でいない⇒1度も認めて無ければ主張できる?
ⅳ)出生後1年経てば父子関係が安定しているので主張できない⇒1年経っても安定していなければ主張できる?

ということになりそうです。

また、嫡出推定・嫡出否認制度の目的からは

ⅴ)子を育てる責任を負う者を自動的・安定的に決めるための制度⇒別の者が子を育てる責任を負う場合であれば主張してもよい?

ということになりそうです。

他方、民法772条が非常に限定的な場合にのみ嫡出否認の主張を許しているということは、裏を返せば同条の場合にのみ遺伝子のつながりを直接判断する(現代的にはDNA鑑定)ことを許している(これは一種のプライバシーの保護といえます)とも考えられますので、

ⅵ)DNA鑑定をするまでもなく血縁関係が無い場合

にのみ例外を認めるべき、との考え方にも十分な理由があります。

もちろん、上記ⅰ〜ⅵが全て揃わなくても(一部が揃えば)例外が認められる余地はあるのですが、上記ⅰ〜ⅵがほぼ全て当てはまる事件がありました。

その事件は昭和44年に最高裁で判決が出されますが、事案は

  • 子の母と戸籍上の配偶者は子の出産の2年半以上前から別居し、全く交流が絶たれていたが離婚届の提出が遅れ
  • そのため、戸籍上の婚姻終了後300日以内に別の男性(遺伝子上の父)との間の子が産まれた
  • 嫡出推定制度により母の戸籍上の配偶者が『父』とされていた子が10歳を超えてから
  • 遺伝子上の父に認知を求めて認知訴訟を提起した、

というものでした。

認知訴訟ですので、遺伝子上の父を「子を育てる責任を負う者=父」と認めよ、という訴訟ということなので、訴えが認容されれば上記ⅴ(別の者を子育て責任者とする)、ⅰ(子が主張)、ⅱ(手段は訴訟)にそれぞれあたります。

また、戸籍上の夫婦間は2年半以上交流を絶っていますのでⅲ(1度も父子と認めず)、ⅳ(安定した父子関係無し)ⅵ(明らかに血縁関係無し)にそれぞれあたります。

この事件で最高裁は、上記事情がある場合には「実質的には民法772条の嫡出推定を受けない」として嫡出否認の訴えによらなくても、父子関係を否定できる、と判断しました。つまり民法777条が定める嫡出否認の訴えの制限を受けずに例外的に父子関係の存在を否定することを認めました。

しかし、この最高裁の判断には更に味わい深く、実は300日問題の解決のヒントにつながるポイントがあります。それは、

「『認知請求訴訟』つまり、遺伝子上の父を法的な父と認めよ」という訴訟において上記のような嫡出否認制度(民法777条)の例外を認めた

という点です。

これが何故味わい深く、300日問題の解決のヒントのなるのかは次回説明します。

www.jiji.com

親は「決めなければならない」−300日問題の背景−その2

前回、

①親を定める=育てる責任を負う者を決めることが子の福祉にも国家の要請にも適うこと

②同じ目的で親と決まった者がそれを否定する=嫡出否認は非常に限定された場合にのみ認められること

を説明しました。今回はその先の展開を説明します。

まず、300日問題を含む問題がどれほどあったとしても、現行の嫡出推定制度を単純に廃止することは不可能である、ということはしっかり確認する必要があります。

単純に嫡出推定制度を廃止してしまうと、子が産まれた段階では「父は不明」「父は決まっていない」ということになります。

そうすると子どもが産まれた場合、全ての子について「父を決める」という手続が必要になります。あくまで「不明」であった父を「決める」という手続なので、「自分はこの子の父ではない!」という紛争が必ず発生します。その主張に根拠があろうと無かろうと「父が決まらない」という状態が一定期間発生することになりますし、紛争である以上、必ず解決する=父が決まるという保障もありません。

また、そもそも「どうやって決めるのか?」の基準がわからないのも問題です。

全員にDNA鑑定をするという方法は生物学的親子の判定には役立ちますが、「育てる責任を負う者を定める」という子の福祉及び国家の要請とは相反します。非常にドライに感じられますが、「子を育てるのは親の責任(国の責務ではない)」という前提を崩さない以上、「血がつながっているかいないか」とは関係なく「育てる責任を負う者=親」を定めなければならないということです。

そうすると現行の嫡出推定制度、つまり父子関係と「婚姻」を結びつけるという発想は「親を決める」方法として少なくともあり得る考え方です。また、民法上の婚姻とは「食卓とベッドを共にする関係」という比喩で説明されるように、①財産・生活の一体性と②性的関係が核心とされていますので(詳細やその当否は別の機会に)、子が生まれたら普通は婚姻の相手の子と考えられる⇒現行の嫡出推定制度というのはある種の「常識」に支えられているとも言えます。

同様に嫡出否認の主張を無制限に認めることも不可能であることも確認する必要があります。

「育てる責任者が決まらない」という事態は当然子の福祉に反しますし、国家の要請にも反します。しかし、それ以上に「一旦決まった責任者=親がその責任を免れる」ことは、それまで「子を育てる責任者」が決まっていることを前提に構築されていた生活関係等の現状が木っ端微塵に破壊されるのであり、子の立場からも国家の立場からも「たまったものではない」事態といえます。

この「たまったものではない」事態を直接招くのが嫡出否認の主張ですので、それは極めて限定せざるを得ない、ということになります。

そうすると、

①「父子関係」が問題となっている場面で否認主張を「父」に限定して認め

②慎重な判断を期すために手続を訴訟に限り、

③一旦父子関係を認めた後の否認は現状の崩壊の程度が甚だしいのでこれを認めず

④父子関係が1年以上続いた後の否認も現状の崩壊の程度が甚だしいのでこれを認めない

という限定はあり得る考え方であり、これを「無制限に」緩めるのは子の福祉にも国家の要請にも反します。

さて、他方で「育てる責任者を決める」ことが嫡出推定制度の核心であるとすると、例外が認められる場合があるのではないか?という点が問題になりますし、その先に300日問題の解決のヒントがあるのではないかも考えられますが、それは次回以降に。

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親子って何?−300日問題の背景−その1

親子って何?−300日問題の背景−その1

記事のとおり、いわゆる300日問題について、その背景又は原因とされる嫡出推定制度の合憲性について正面から争われた裁判の判決が29日に出されるようです。

そこで、300日問題について何回かに分けて説明しようと思います。300日問題そのものを説明する前に、今回はまず300日問題の背景又は原因とされる嫡出推定制度の存在理由を説明しようと思います。

嫡出推定とは、

民法772条「①妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。婚姻の成立の日から二百日を経過した後又は婚姻の解消若しくは取消しの日から三百日以内に生まれた子は、婚姻中に懐胎したものと推定する。」

という制度です。わかりやすく言うと、女性が婚姻中又は婚姻期間後一定期間に出産した子は戸籍上の夫(離婚後であれば元夫)の子であると「推定」するのです。「推定」といってもこれが覆されるのは非常に限定的であり、

民法774条「第七百七十二条の場合において、夫は、子が嫡出であることを否認することができる。」

民法775条「前条の規定による否認権は、子又は親権を行う母に対する嫡出否認の訴えによって行う。」

民法776条「夫は、子の出生後において、その嫡出であることを承認したときは、その否認権を失う。」

民法777条「嫡出否認の訴えは、夫が子の出生を知った時から一年以内に提起しなければならない。」

 つまり、

①夫しか否認できない(主体の限定)

②訴訟によらなければならない(手段の限定)

③一度でも「自分の子」と認めれば否認できない(機会の限定)

④提訴は1年以内(期間の限定)

という非常に限定的な場合にしか、嫡出性の否認=「自分の子でないと主張」はできないわけです。(次回以降説明するとおり、他の手段が無いわけではありません)。

さて、このような嫡出推定制度はなぜ定められているのか?を考えるには、「親子とは何か?」という深遠な問題を検討しなければなりません。

親子について定める基本規定は、

民法820条「親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。」

です。

「義務を負う」ということからわかるとおり、我が国では子を育てるのは親の責務・義務です。逆に言うと、国家は子育てをする親を補助・援助することはあっても、子育ての責任を負うことは原則としてありません。

これを

「子」視点から見れば「親を定めることが子の福祉」

ということになり、

国家の視点から見れば「子の育成のために『親』を定めなければならない」

ということになります。

これらの視点からは、子が産まれる度に親かどうか?が争われたり、一旦「親」とされた者が「親でなくなる」たりする事態は出来る限り避けなければなりません。つまり、子の「親」がある意味『自動的』に定められ、なおかつ簡単にはその責任を免れられない制度が要請されることになります。

注意すべきなのは、上記の理屈には「親の遺伝子を継ぐ者が子」という視点は少なくともメインの視点にはなり得ない、ということです。これが民法が定めるのは「法的親子関係」であって「生物学的親子関係」ではない、と言われる理由です。

上記のように「親を自動的に定める」ことが子の福祉ばかりでなく国家の視点からの要請とするとその方法が問題になります。

まず、「母」については出産した者」が子の母であるというのが民法の立場と考えられます。非常に明確な基準・方法です(代理母の問題も現行法では出産した者=代理母民法上の母という解決になります。その当否は問題ですがそれは別の機会に)。

これに対し「父」については「出産」のようなイベントがないため「自動的に『父』を決める」ためには工夫が必要です。

我が国の民法(他の多くの国の法律も)が採用する「工夫」は、嫡出推定の規定である上記民法772条に「婚姻」という言葉が4回も出てくることからわかるとおり、「婚姻」と「父子関係」を結びつける方法です。

つまり、婚姻中又は婚姻後一定期間に生まれた子は戸籍上の母の配偶者を「父」とさだめる訳です。

我が国では「籍を入れる」という言葉の存在が示すとおり、いわゆる事実婚は少なく、子どもができる段階では法定婚=婚姻していることが多いため、「婚姻」と「父子関係」を結びつけているとも考えられますし、端的に嫡出推定=父子関係の推定は婚姻の1つの効果だ、と言ってもいいと思います。

このように「婚姻」と「父子関係」を結びつけて「父」を定めますが、一旦「父」と定まったのにそれを拒否することを認めるのは前述の通り、子の福祉にも国家の要請にも反します。

他方、(法的)親子関係のメインの考慮要素でないにしても「自分の子を育てたい」というのは人情であり、かつ、それが不当と言えるわけでもありません。

このバランスを取るために、民法は①嫡出否認を父に限定、②方法を訴訟に限定、③機会の限定、④時間制限という厳しい限定の下でのみ嫡出否認=父子関係の否定を認めているわけです。

このように

ⅰ)婚姻と父子関係を結びつけていわば自動的に父と定め

ⅱ)その否定=嫡出否認は非常に限定的な場合にのみ認める

という仕組みにより、子を育てるべき親を安定的に定め、子の福祉を図り、国家の要請に応えていることになります。

これが嫡出推定制度の存在理由であり、記事の訴訟で国が主張していることの1つだと思われます。このことの当否を考えるにはあといくつか検討しなければなりませんが、それは次回以降に。

mainichi.jp

給与所得控除は多いのか少ないのか?−法と歴史は「使える」ツール

本ブログで様々な問題を落ち着いて考えるために現行法の規定やそれについてのオーソドックスな説明をツールとして使うことをお勧めしています。コレに加えて、問題となる規定や制度についての議論の「歴史」も冷静な思考の非常に有益なツールです。それを説明するのに記事の配偶者控除の問題はうってつけです。

記事にあるように来年の税制改正の目玉の1つが配偶者控除の引き下げになるようであり、その理由は「我が国の配偶者控除は諸外国に比べて『相当手厚い』=給与所得者を優遇しすぎている」ということです。しかし、これを聞いて「そうか!」と分かる人はほとんどいないと思います。このわかりにくさの原因の1つは「配偶者控除が手厚いとか薄いとかいうのは何を手がかりに考えればよいかわからない」ということだと思います。

そのため、いつものように「給与所得控除とは何か」をまず確認すると、所得税法での税額を定める際、税率をかける前の金額=課税所得の計算方法の原則は、例えば事業所得について

所得税法27条2項「事業所得の金額は、その年中の事業所得に係る総収入金額から必要経費を控除した金額とする。」

と定めれているとおり、

収入金額—必要経費=課税所得

となっています。

しかし、給与所得についてはこの原則とは異なり、

所得税法28条2項「給与所得の金額は、その年中の給与等の収入金額から給与所得控除額を控除した残額とする。」

と定められています。つまり、事業所得等での「必要経費」が「給与所得控除」に置き換わっているわけです。

ここで重要なのは必要経費とは実際にかかった金額=実額を意味する一方で、給与所得控除額は実額とは関係なく、所得税法で予め決められた額(概算額)であるという点です。

給与所得では収入から実際にかかった費用(必要経費)ではなく予め定まった概算額(給与所得控除額)を引く理由は、

①給与所得者は必要経費と個人的支出(家事費といいます)の区別が不分明であることを中心に、

②我が国では給与所得者の数が非常に多く、実額を引くのは徴税上手間がかかりすぎること

③各自の主観や節税技術の巧拙で給与所得者同士の不公平が生ずることを防ぐこと

 とされています。

さて、これが「手厚い」かどうか?というのは、言い換えれば他の所得者、例えば事業所得者と「比較」して、給与所得者がより優遇されているか、冷遇されているか、という問題です。これは言い換えると、租税法の2大原則の1つである租税公平主義(=等しき者には等しい課税、異なる者には異なる課税)が実現されているか?という問題です。

この給与所得者とそれ以外の所得者(主として事業所得者)との間で租税公平主義が実現されているかが争われた有名な裁判がいわゆるサラリーマン税金訴訟であり、昭和60年に最高裁で判決がなされました。

このサラリーマン税金訴訟は、給与所得が必要経費を引くのではなく、給与所得控除を引くという仕組みは、事業所得者に比べて給与所得者が不利益に扱われている、給与所得控除は低すぎる、という現在の議論と全く逆の主張がなされた訴訟だったことに大いに注目すべきだと思います。

その根拠は、

ⅰ)給与所得は事業所得に比べ捕捉率が高い、つまり事業所得者は事業に従事する家族との食事を交際費(必要経費)とする等、所得を故意に減らす手段が多いのに、予め控除額が決まっている給与所得者は所得を減らす手段がなく、事業所得者に比べて実質的に重税であること

ⅱ)事業所得者には租税特別措置法等により各種の優遇税制があるが、給与所得者にはないこと

ⅲ)現実には給与所得者が給与を得るにあたって使っている「経費」は給与所得控除額を大きく上回ること

でした。

最高裁は、

ⅰ)ⅱ)については「どの程度のものか明らかでなく、所詮立法政策の問題」として、事実としては否定せず

ⅲ)についても「給与所得者において自ら負担する必要経費の額が一般に旧所得税法所定の前記給与所得控除の額を明らかに上回るものと認めることは困難であつて」としてその存在の可能性までは否定しませんでした。

結論としては、ⅰ)〜ⅲ)の事情にもかかわらず、給与所得控除の理由である上記①〜③という正当な目的を達成するためには、給与所得控除という制度は相当性を欠くことが「明らかとまで言えない」として給与所得控除は租税公平主義に反しないとしました。

さて、最高裁判決の34年後の現在、給与所得控除が上記最判で問題となっているのとは逆に「給与書所得者に相当手厚い」とされて引き下げられようとしています。

したがって、34年前に比べて最高裁で問題となった、

ⅰ)捕捉率が高い

ⅱ)他の所得には優遇制度があるが給与所得には無い

ⅲ)「経費」は実は給与所得控除額より低い

という3点はどのように変化したのか?変化しなかったのか?を軸に政府税調が言う「相当に手厚い」かどうかを考えると、思考の整理には非常に有益だと思われます。

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