弁護士由井照彦のブログ

法律の視点からの社会・事件やリーガルリサーチについて

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刑は有限?−刑の「重さ」を考える

ここ3回の投稿で高速道で自動車を停止させた死亡事故を題材に刑法の思考を説明しましたが、これに対し、事件の悪質性や被害者の残された子を考えると「死刑か無期懲役くらいじゃないと納得出来ない」という意見をいただきました。一般の方の感覚としては当然の気持ちです。

そして、今回の容疑者を無期懲役や死刑にしてはいけないと説く刑法ないしその運用に携わる法律家の感覚が一般と「ズレている」と一般の方から思われるのも十分に理由があると思います。そこで今回はこの「ズレ」はどこからくるのか?につき少し説明をしたいと思います。

まず、強調しなければならないのは一般人の量刑感覚というのは非常に大事だ、ということです。

刑法の機能のうち①応報の観点からはどのような刑が犯した犯罪に見合うか=応報として適正かというのは、我が国の歴史的な経緯・伝統をも含む一般人の感覚の結晶という側面が強いと思われます。また、②一般予防(一罰百戒)というのは、国民を刑罰で威嚇して犯罪を思いとどまらせようという効果を狙っていますので、一般人の「こういう犯罪を犯すと、こんな刑罰が来るから、やめておこう」という感覚=量刑感覚と結びつきが非常に強いわけです。

そのことを前提にしているのに、何故、本件では容疑者を死刑や無期懲役にしてはいけない、上限7年の懲役でなければならない、と刑法が判断し、法律家も基本的に同様の立場なのか、という問題は少なくとも表題にもした通り「刑は有限」という視点が絡むように思います。

我が国の刑法の刑の上限は例えば殺人罪について、

刑法199条「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」

と規定されているように、死刑です。死刑廃止国では上限が終身刑になります。

他方、刑の下限は例えば侮辱罪について

刑法231条「事実を摘示しなくても、公然と人を侮辱した者は、拘留又は科料に処する。」

刑法17条

科料は、千円以上一万円未満とする。」

と規定されているように、1000円の罰金です。

刑法は世の中に存在する全ての犯罪類型、そして同じ犯罪の中でも非常に多様で個性のある個々の犯罪をこの「1000円の罰金から死刑まで」の範囲で規律します。

そしてその規律の仕方は前3回で説明したとおり、犯罪同士を「比較」して「より社会的非難の強い犯罪をより重く罰する」ということになります。

ここで重罪・重罰の例を考えると、死者12名、数千人の負傷者(重篤な障害が残存した人を複数含みます)を出した地下鉄サリン事件サリン散布実行者は自首が認められた1名(しかもかなり特殊な自首)を除く全員が死刑でした。

この際サリン散布実行者を地下鉄の駅まで車に乗せていった運転手役の中に地下鉄サリン事件への主体的関与が無く、従属的立場で運転主役を務めたにすぎない者がいました。従属的な運転手であったとしても、地下鉄サリン事件という悲惨な結果を生み出した犯人グループの一員であり、運転手がいなければ散布実行者は駅に行けなかったのですから、役割が軽くはありません。

しかし、従属的な運転手がサリン散布実行者と同じような①応報を受けるべきだ、というのには法律家は躊躇するところがあります。また②一般予防の観点からも「サリンを撒くな」というのと「サリンをまく奴の運転手をするな」というのでは刑罰で威嚇しなければならない強さは圧倒的に前者ではないか、という躊躇も法律家にはあります。

この思考を一因として地下鉄サリン事件では他に重い余罪の無い運転手役は無期懲役判決となりました。

さて、翻って今回の高速道に自動車を停めさせた容疑者の悪質性(科すべき応報)や一般予防(刑罰による威嚇)の必要性は、上記のサリン事件と「比べる」とやはり弱いことは否定できないと思います。

法律や判例の勉強をする法律家(刑法の立案者を含みます)は、サリンよりはマシだけれども、ここには書けないくらい酷い態様の殺人、メチャクチャ悪質な(重・業務上)過失致死事例、危険運転致死事例などたくさん学びます。

刑法は「より社会的非難の強い犯罪をより重く罰する」という手段で犯罪抑止を目指す法律です。そのためには犯罪同士を「比較」して刑の重み付けを決めることが必須となります(罪刑の均衡の要請ともいいます)。

そして、冒頭で説明しましたとおり、刑には上限(我が国では死刑)があります。この「刑には上限がある」という制約の中で「より社会的非難の強い犯罪をより重く罰して社会秩序を維持する」という目標を達するためには、より悪質な犯罪の存在を意識して、「あんな酷いのと同じ重罰を科していいのか?」ということを考えざるを得ません。そのため、いわゆる厳罰化には抑制的にならざるを得ない、これが刑法の立案者や法律家の感覚の1つであり、一般の方と感覚がズレる一因と思われます。

もちろん、現在の刑法の規定が絶対に正しいわけではありません。社会の動向や社会意識、一般人の量刑感覚により刑の重み付けが変わることも当然あります。それらを勘案しながら選挙で選ばれた国会議員が立法を行いますし、裁判でも社会の動向は当然考慮要素になります。

ただ、法律家は法律を勉強した者、法律の運用に携わる者として(現行)刑法が様々な要素を考慮して定められていることを説明し続けなければならないものと私は考えています。

どれくらい塀の中に?−言い渡される刑の幅

一昨日、昨日の投稿で刑法がより悪質な犯罪を抑止しようとしていること、故意の判断プロセス等を説明したところ、「被害車両を停止させた容疑者と後ろから追突したトラック運転手が同じ罪名なのは納得がいかない」というもっともなご指摘がありました。そこで、同じ罪名でも被告人が置かれることになる状況は天と地ほど違うことを説明しようと思います。

一昨日に書いたとおり、過失運転致死罪の法定刑は

自動車運転処罰法5条「…七年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処す。」

となっています。

しかし、実際の刑の幅は上記よりも広くなります。

まず、軽い方に広がる規定として

刑法66条「犯罪の情状に酌量すべきものがあるときは、その刑を減軽することができる。」

刑法68条「…三 有期の懲役又は禁錮減軽するときは、その長期及び短期の二分の一を減ずる。

四 罰金を減軽するときは、その多額及び寡額の二分の一を減ずる。」

とされています。いわゆる「情状酌量」というやつです。

したがって、過失運転致死罪が成立しても情状酌量されると、

「半月以上3年6ヶ月の懲役…又は5000円以上50万円以下の罰金」

という範囲で実際の刑が言い渡されます。

したがって、過失運転致死罪であっても50万円以下の罰金で済むことがあることになります。

また、仮に懲役刑を言い渡されたとしても、下記の規定があります。

刑法25条「次に掲げる者が三年以下の懲役若しくは禁錮又は五十万円以下の罰金の言渡しを受けたときは、情状により、裁判が確定した日から一年以上五年以下の期間、その執行を猶予することができる。…」

いわゆる執行猶予というやつです。執行猶予とは、

刑法27条「刑の執行猶予の言渡しを取り消されることなく猶予の期間を経過したときは、刑の言渡しは、効力を失う。」

という制度なので、例えば懲役3年執行猶予2年とされると、2年間再犯等することなく、執行猶予が取り消されなければそもそも刑が言い渡されなかったことになる、つまり刑務所には入らなくてよいことになります。

同じ「懲役2年」であったとしても、執行猶予が付かなければ2年間もの間刑務所暮らしです。他方、執行猶予が付くとその期間真面目に生きていれば、刑務所に全く入らなくて済みます。これは、刑務所暮らしの2年間に加えて、我が国のいわゆる「ムショ帰り」に対する厳しい世間の目を考えると、その後の人生にも大きな影響を与える、極めて大きな差だと言えます。

以上をまとめると、過失運転致死罪で起訴されたとしても、罰金で済むこともあり得ますし、全く刑務所に行かなくて済む場合もかなり広い範囲で認められています。本件でも高速道路上に停止した車を避けるのが非常に難しいこと等を考えれば、後ろから追突した運転手には執行猶予が付く可能性は高いと考えられます(もちろん、まだ捜査中なので真実はわからず、確たることは言えません)。

他方、報道されている事実を前提とすると被害車両を停車させた容疑者は過失運転致死罪の中でも相当悪質であり、執行猶予が付く可能性は低く、懲役の期間自体も上限である7年に近いものとなる可能性もそれなりにあります。

更に報道からは容疑者は被害者に暴行を加えていたようであり、仮に暴行罪が成立すると下記の規定が問題になります。

刑法45条「確定裁判を経ていない二個以上の罪を併合罪とする。」

刑法47条「併合罪のうちの二個以上の罪について有期の懲役又は禁錮に処するときは、その最も重い罪について定めた刑の長期にその二分の一を加えたものを長期とする。ただし、それぞれの罪について定めた刑の長期の合計を超えることはできない」

 暴行罪の法定刑の上限は2年なので、本件の容疑者が暴行罪でも起訴されると言い渡される刑の上限が9年まで伸びることになります。

刑法は世の中で起こり得る犯罪を出来る限り網羅しつつ、それぞれの法定刑を定めます。そのため、犯罪類型を細分化して定めることは、膨大な数の類型・罪名を生み出すことになり、実際上不可能と言えます。そのため、ある程度概括的・抽象的に犯罪類型を定めます。したがって、本件で被害車両を停車させた容疑者と後ろから追突した運転手が同じ罪名という何となく割り切れないことも起こります。

他方で、刑法は上記のように実際に言い渡すことの出来る刑の幅を非常に大きくとっており、同じ罪名だからと言って同じような社会的非難=刑の重さにはなりません。

このこともまた刑法がより抑止すべき犯罪を重く罰しつつ、実際に起こる犯罪の多様性をも考慮するという冷徹な思考をとっていることの1つの現われと言えます。

www.sankei.com

心の中をどう覗く?−故意は周りから

昨日の記事について、「一般人は殺人で起訴できるかも知れない」と思っているという鋭いご指摘を受けました。そこで、刑法が強い社会的非難が向けられ、重罰を科すべきと規律する「故意」についての判断過程を少し説明しようと思います。

昨日説明したとおり、殺人の故意とは「殺そうと思って行動する」ということです。「思って」と書いたことからわかるとおり、「故意」とは結局のところ人の心の中の問題です。

心の中を直接覗くことはできません。仮に容疑者が「殺そうと思ってました」と自白しても、容疑者が本当にそう思ったかどうかは別途問題になりますので、自白もやはり心の中を直接覗く手段にはなり得ません。そのため「故意」を認定する(検察官にとっては立証する)には、周辺の事実(間接事実と言います)から認定していくしかありません。

つまり、殺人の故意は「①人が死ぬ可能性が高い行為を、②死ぬ可能性が高いとわかって行う意思があった」と『普通』考えられるだけの周辺事実があるか?という判断プロセスで判断するしかありません。これは目に見えない「心」を問題にする以上、しょうがないとしかいいようがありません。

ここで『普通』(経験則といいます)そのように考えられる、というのがポイントです。

本件について問題になるのは②「死ぬ可能性が高いとわかって」の部分です。

ここで、「高速道路で停車させれば、『普通』追突事故が起こって死ぬ可能性が高いのはわかりきってるじゃないか!」という感想が出るのは当然ですし、実際そう言える場合が多いとも思われます。ただ、本件ではその『普通』を大きく疑わせる事情があります。

「容疑者自身も停車し、しかも外に出て被害者の車のすぐ横に立っていた」という事情です。

ここで『普通』という話になります。『普通』人は死にたくありません。殺人を犯そうと思っている人間も『普通』自分は死にたくないと思っています。「死なばもろとも」という殺人=無理心中も存在しますが、それは『普通』家族間、恋人間等で起こるのであり、本件のように初めてあった者が相手を「死なばもろとも」「自分も死んでいいから、相手を殺したい」とは『普通』思いません。

本件の容疑者に上記のような『普通』に当てはまらない特殊な事情があれば別ですが、そうでない限り本件でも容疑者自身は「自分は死にたくない」と思っていると考えるのが『普通』ということになります。

これは言い換えれば、本件での殺人の「故意」とは容疑者が「自分も死んでいいから、被害者を殺したい」という意思、つまり無理心中の意思ということです。

本件はまだ捜査中の事案ですので真実はわかりませんが、報道にあるだけの事情からは本件の容疑者が被害者と無理心中しようとしていたと『普通』考えることは困難です。

つまり、『普通』に考えれば、容疑者は車が突っ込んできて、被害者と自分が死ぬとは思っていなかった=死ぬとわかっていなかった、ということになります。

ということは、本件の容疑者の心=内心=主観態様は故意ではなく過失だった、ということになります。そのため、本件の容疑者は殺人罪ではなく、過失を前提とする過失運転致死罪で逮捕されていることになります。

前回「法律は実は甘くない」と説明しましたが、本件でも殺人罪が成立しないことは本件の容疑者に対して甘いことを意味しません。もっと非難の度合いが強い「故意」つまり殺人を「より」重く罰するために故意と過失で法定刑に差がつけられていると言えます。

「ひどい」と思う事件があると「重く罰せよ!」という気持ちがわき起こるのは当然です。しかし、刑法はこのわき起こる感情とは別に、やや距離を取って「より重く罰すべき犯罪がある」という現実を冷徹に考慮し、より重い犯罪を抑止するという非常に現実的な判断をしながら各種の犯罪と法定刑の高低を定めていることになります。

なお、過失であることを前提に危険運転致死罪等もっと法定刑の重い罪名で起訴できないか?というのは別途問題になりますが、それはまたの機会に。

 

www3.nhk.or.jp

「殺す」と「死なせてしまう」の差−法律は実は甘くない

記事のような悪質な過失致死事件が報道されると「人を死なせたのに過失致死程度だなんて」「殺したも同じだ」というような人が一定数います。そして我が国の刑法(特別法を含みます)やその運用に携わる裁判官・検察官・弁護士を「甘い」と評価する人もそれなりにいます。

しかし、少なくとも我が国の刑法は実は甘くありません。犯罪という社会現象を冷徹に規律しています。

刑法の機能は前にも少し書いたとおり、①因果応報(目には目を)、②一般予防(一罰百戒)、③特別予防(犯人の更生)の3つです。

ここで①に着目すると、目には目を歯には歯をなので、「社会的非難が強い類型の行為には重い刑罰を課す」ということになります。②に着目しても社会的非難が強い類型の行為を社会的になくすために重罰を科すということになります。更に③についても社会的に非難強い類型の行為をした者は長く拘禁等しないと更生しないので、より重く罰するということになります。

つまり、刑法が禁圧し、重罰を科すのは社会的非難が強い行為ということになります。

ここで重要なのは、当然ですが社会的非難の強さには強弱があり、言い換えると(犯罪とされる)行為の類型同士をそれぞれ比較して「より社会的非難が強い」「より弱い」という判断をするわけです。

そして、社会的非難の構成要素はⅰ)客観的に判断できるもの(犯罪の結果や関わった人数など)とⅱ)主観的に判断するものがあります。

ⅱ)の主観による社会的非難の強さを計る基本的な視点が「故意」と「過失」です。

犯罪結果が「人の死」である類型、それも自動車が絡むものに着目すると、

「人を死なせようと思って又は人が死ぬとはっきりわかっているのにあえて車を人に衝突させた」というのが「故意」であり殺人罪が成立します。

次に

「人を死なせようと思っておらず、人が死ぬとは認識していなかったが、不注意で人に車を衝突させてしまった」というのが「過失」であり、通常過失運転致死罪が成立します。

この2つの類型を「比較」して、「どちらにより重罰を科すべきか」を考えると、

①応報の観点からは、人をわざと殺すのと、不注意で死なせるのとでは、結果は同じでも行為者の悪質性は圧倒的に故意の方が重いと考えられます。つまり、故意(殺人)をより重く罰すべきです。

②一罰百戒の観点からは、人を殺そうという不埒な輩こそ刑罰で威嚇しなければなりませんし、「不注意で死なせても同じ刑なら、人を殺しても大したことはない」という悪魔的な考えを予防するためにも故意により重罰を科さなければなりません。

③犯人の更生の観点からも、不注意で人を死なせた人より、殺そうと思った者の方が長く拘禁しないと更生させられません。

つまり、故意の方が過失より重く罰することが、刑法の機能や目的をより果たし得ることになります。そのため、殺人罪と過失運転致死罪とでは、

刑法199条「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」

自動車運転処罰法5条「自動車の運転上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、七年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する…」

のように、法定刑に差がつけられているのです。これは過失で人を死なせてしまった人に「甘い」のではなく、「殺人と過失運転致死ではどちらをより禁圧し、重罰を科すべきか」との「比較」を行うという非常に冷徹な思考の結晶と言えます。

更に、上記2罪の法定刑をよく見ると、更に冷徹な思考がなされていることがわかります。

つまり、殺人は刑の下限が懲役5年であり、過失運転致死は上限が7年です。言い換えると、つまり、事案によっては過失運転致死罪の方が殺人より重く罰せられる場合があるということです。

これは刑法が主観により「より重く罰すべきはどちらか」という思考に加えて、「過失であっても相当に悪質性が高い場合がある」という冷徹な現状認識をしていることを表しています。

刑法は「重いor軽い」という単純な思考ではなく、上記のように「より禁圧すべきはどちらか」という思考や「相当悪質な過失がある」という非常に冷徹な思考がなされて、行為の類型と罰の重さを規定しています。

この冷徹な思考を少し垣間見ると、新たな類型の犯罪に対する刑罰の重さに対する自分の思考を整理するのに役立つと思われます。

headlines.yahoo.co.jp

 

 

 

内部留保に課税する?−収得税と財産税で議論を整理

希望の党が公約として消費増税を凍結し、代替財源として企業の内部留保への課税を検討していることについて「内部留保=悪だというのは共産党と同じリベラルで左な発想だ!」vs.「消費増税凍結のためには仕方ない」等という恐ろしく粗雑で中身がわかりにくい応酬がはじまっています。

内部留保への課税というのは財産税の一種であると考えられますので、この問題を考えるにあたって、現在既にある財産税の仕組みなどを知っておくと議論を整理し、理解するのに非常に有益です。

我が国の税制の原則は収得税である所得課税が原則です。これは所得に課税するわけですが、企業の所得とは

法人税法22条1項「…法人の…所得の金額は、…益金の額から…損金の額を控除した金額とする。」

と規定されています。これは要するに企業の売上等の収入から必要経費を引いた純益の一部(23.4%)を税金として徴収するということです。

すなわち、企業はその年新たに手にした利益の約2割を税金として支払い、約8割を手元に残せます。言い換えると、企業は税金を支払うことで手元に残る利益は減りますが、その前年より財産が減ることはありません。当然、赤字の年には納税する必要がありません。

つまり、所得課税=収得税は企業は永続すべき存在=ゴーイングコンサーンである、ということに適合した課税といえます。

次に、内部留保への課税を含む財産税とは、ある財産を所有していることに着目して課税される税です。現行法での典型的な財産税は固定資産税であり、

地方税法342条1項「固定資産税は、固定資産に対し、…課する。」

地方税法343条1項「固定資産税は、固定資産の所有者…に課する。」

 と規定されており、要するに不動産の価格(固定資産評価額)に税率をかけた金額をその不動産の所有者から徴収する税です。

固定資産を持っていれば課税されますので、それを賃貸に出す等運用していなくても(自社ビルやその土地など)、徴収されますし、所有者である限り毎年徴収されます。つまり、企業に収入があろうが無かろうが、赤字であろうが関係なく、不動産価格の一定割合が毎年税として徴収されることになります。

 内部留保とは、企業が純益として得た利益を複数年配当や投資に回さず、預金等で保有する財産を意味しますので、内部留保に対する課税とは、「預金等の財産を持っていることに着目して徴収する税」ということになり、財産税の一種と考えられます。具体的には内部留保額に一定の税率をかけた金額を毎年徴収することになろうかと思います。

さて、財産税は財産を多く持っている者からその年の儲けとは関係なく徴収されますので、税金の徴収を通じて資産を多く持つ者から少ない者に資産を国が再分配する機能を果たすことになります。固定資産税で言えば、不動産を持っている人から税を徴収し、持っていない人に対しても使われる国の財源に加えることで、資産の再分配を行っている訳です。

この資産の再分配機能を肯定的に評価するかどうかが内部留保課税の賛否を考える際の1つのポイントです。

共産党などはこの再分配機能に肯定的な評価を与えていると考えられます。

一方、内部留保は、利益を上げた年に一度法人税を徴収された残りが積み重なったものですので、これに課税するということは企業にとっては利益に対して所得課税と内部留保課税の二重に課税されていることになります。これは財産税が利益への重税という側面を有していることを表しています。

そして、企業が内部留保をするのは良い投資機会があった際にチャンスを逃さず投資活動を行い、業績を上げるためと言えます。その原資である利益に二重に課税し、重税を課すのは企業活動を抑制し、日本経済に良くないという見方があり得ます。この企業活動の抑制効果がどの程度強いと考えるか、という評価も内部留保課税の賛否を考える際の1つのポイントです。

内部留保課税に対して批判的な立場をとる人たちの基本的な視点はこの抑制効果を重く見ていることにあるはずです。

他方、我が国の企業は内部留保を厚くするが投資は抑制的になる傾向がある、との見方があり得ます。そうすると、内部留保に課税することは、課税を免れるために企業が内部留保を減らし、投資・配当・賃金等に資金を回すことを促す、という考え方が成り立ちます。少し前の小泉政権のキャッチフレーズだった「貯蓄から投資へ」というのはこの考え方の個人版です。

この投資等促進効果をどの程度重視するかもまた、内部留保課税への賛否を考える際の1つの視点です。

共産党やリベラルは嫌いだけど、内部留保課税には賛成」という人たちの基本的な視点の1つはこの投資促進効果の重視にあるはずです。

 政治問題は一種の感情論に走りがちです。しかし、右だ左だというレッテルではなく、冷静な議論をするために、まず現行制度の考え方をツールに議論を自分なりに整理する、というのは非常に有益だと思われます。

mainichi.jp

保守やリベラルって何のこと?−憲法の規定から整理すると

総選挙公示を控えて政党再編が喧しく、「穏健な保守」「リベラル」等という思想用語のようなものが飛び交っています。しかし、そもそも「保守とは何か?」「リベラルとは何か?」について明確に語られることが少なく、議論が非常にわかりにくくなっています。実際のところ、希望の党が言う「保守」といわゆる保守思想との間には相違点が多く、また立憲民主党共産党が言う「リベラル」といわゆるリベラリズムの間にもかなりの相違点がありますので、議論のわかりにくさ100倍といった様相です。

そこで、議論の整理のために憲法、特に(現行の)日本国憲法の諸規定に関するオーソドックスな説明をツールに、上記のような思想的混乱を自分なりに整理することは、自己の政治的立場や自分の望む政治更には投票先の選定にあたって非常に有益だと思われます。

日本国憲法が定める権利(いわゆる人権)は「◯◯権」という名称がついているものの、そのほとんどは国民が権利を「積極的に行使する」ということを想定していません。 たとえば、表現の自由を定める憲法21条1項は、

憲法21条1項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

と定めていますが、国民が何か表現行為(例えば反安保法制集会を開いたり、写真集を出版したりする等)を行うにあたっていちいち「表現の自由を行使する!」と誰かに言うことを求めているわけではありません。 表現の自由は、例えば国家が反安保法制集会を交通の邪魔だと言って取り締まったり、とある写真集を「わいせつだ」と言って撮影者を逮捕したりする等、

「国家(公権力)が国民の表現行為を妨害しようとする場面」

で、国家は集会を取り締まるな、国家は写真集の撮影者を釈放しろ(無罪判決にしろ)というような、

「国家は何もするな、国民の自由にさせておけ」

という形で力を発揮します。

このことは経済の場面でも基本は同じであり、

憲法22条1項「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」

との定めは、例えば薬局開設について国家が合理的理由も無いのに、他局から◯メートル以上離れていなければならない等と定めて、新規薬局開設を禁止すると行った場面で

「国家は、国民が薬局を新規開設するのを邪魔するな。国民の自由にさせておけ。」

という形で力を発揮します。

このように「国家は国民の邪魔をするな」という形で力を発揮する権利を消極的自由権と言います。我が国でも諸外国でも憲法が定める権利の原則は消極的自由権が原則です。

消極的自由権憲法上の権利の原則だということは、国民の自由な活動のための基盤を整備したり、国民同士の権利行使の調整をすることが国家の役割である、との思想を憲法は土台としていることを意味します。これは言い換えると「国民の自由の保障のために国家の役割を限定する」という考え方です。

これは経済思想的には自由主義経済、特に自由主義経済の中でも市場を通じた利益調整(いわゆる「神の見えざる手」)に重きを置く考え方を土台にしています。 また、かつての小泉政権での「民間にできることは民間に!規制緩和!」というのはこの消極的自由の尊重という一面を有していました(それだけではないのはもちろんです)。

しかし、上記のような消極的自由権だけでは国家はうまくいきません。

つまり、国民の自由な活動を保障するだけでは、競争に負けて困窮していくしか無い者(典型的には老人や障がい者)を不可避的に生み出すのが現実です。また、経済政策としても市場に全てを任せるだけでは、経済の変動(凄まじいインフレ等)により、国家経済の破綻すらあり得ることも歴史が証明しています。

これは言い換えれば、「消極的自由権だけでは、国民は『自由』を享受できない」もっと言うと「消極的自由権だけでは『飢える自由』しかない」という現実があることを意味します。

そのため、憲法は消極的自由以外の権利を定めます。典型的な規定が憲法25条であり、

憲法25条「①すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。②国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

  と定めます。つまり、国民が真の自由を享受するために「健康で文化的な最低限度の生活」を保障し、そのために国家が積極的な政策を遂行すべきことを国家の義務としている訳です。 これは言い換えると「国民の実質的な自由の保障のために国家の役割を拡大する」という考え方です。 これら国民の福祉のために国家に積極的な役割を期待する憲法25条等の思想を「福祉国家」思想と言ったりします。

国民の自由を保障する→国家の役割を限定する

国民の実質的な自由を保障する→国家の役割を拡大する

 という2つの方向性は完全な形では両立しない、矛盾した原則です。

憲法がこの矛盾する2つの原則を共に定めているということは、この2つの原則間の調整をうまくつけながら、なるべく相互の矛盾を少なくするように国家を運営しなければならないことを示しています。この調整は抽象的に語られるべき事柄ではなく、その時その時の情勢、科学的な未来判断、国民世論等を勘案しながら、機動的に判断されなければならないことはもちろんです。

したがって、政治を担う者として、この2つの矛盾する原則について、ⅰ)どちらをより重視するのか、ⅱ)どのような調整方法が原則なのか等のスタンスの差が基本的な政治的な立場の差ということになります。 その一般的な傾向ないし「モデル論」の呼称が「本来の」「保守」や「リベラリズム」ということになります(ついでですが本来の保守思想とリベラリズムは必ずしも相反する考え方ではありません)。

今回の選挙でも、混乱する「保守」「リベラル」というキャッチフレーズではなく、上記2つの原則の調整の仕方に関心を持って各党の政治的立場を自分で整理してみるとよいのではないかと思います。  

headlines.yahoo.co.jp

気づかぬ内に消費者金融?−銀行カードローンの仕組み

記事のような銀行カードローンの問題を考えるにあたっては、おカネの貸し借りに関する基本的な法的仕組みを理解しておくことが非常に有益です。

まず、記事で言う「総量規制」とは貸金業法に定めがあり、

貸金業法13条の2「①貸金業者は・・・個人過剰貸付契約その他顧客等の返済能力を超える貸付けの契約と認められるときは、当該貸付けの契約を締結してはならない。

②「個人過剰貸付契約」とは・・・基準額(その年間の給与及びこれに類する定期的な収入の金額として内閣府令で定めるものを合算した額に三分の一を乗じて得た額をいう・・・)を超えることとなるもの・・・をいう。」

つまり、貸金業者は債務者の借入額が年収の3分の1以上になる場合には、貸付けを行ってはならないと定めているわけです。

消費者が過度な借入れを防ぐための規定であり、消費者保護が目的と言えます。

さて、この総量規制は貸金業法には上記のように定めがありますが、銀行法にはありません。

詳しい説明は省きますが、銀行は貸金業者消費者金融信販会社)ではないので、貸金業法の規制=総量規制を受けません。つまり、個人の借入額がその年収の3分の1を超えることになっても貸し付けることができます。

このことを「抜け穴」と捉えるか、「貸金業者と銀行の社会的信用に基づく常識的な区別」と捉えるかは諸論あると思います。

この先の具体的な議論のためには、おカネの貸し借りについての基本的な仕組み、民法の規定を知る必要があります。

銀行ローンの登場人物は債務者と銀行だけではありません。

例えば、三菱東京UFJ銀行のカードローンである「バンクイック」の説明書(http://www.bk.mufg.jp/kariru/card/banquic/pdf/banq_setsumei.pdf)をみると、

「※保証会社(アコム㈱)の保証をご利用いただきますので、保証人は必要ありません」

と書いてあります。

アコムはもちろん消費者金融会社です。

つまり、銀行ローンは、利用者が消費者金融会社に保証人になってもらって、銀行からお金を借りる仕組みです。

保証人とは何か?については民法に規定があり、

民法446条1項「保証人は、主たる債務者がその債務を履行しないときに、その履行をする責任を負う。」

 とされています。

銀行カードローンに引き直せば、利用者(債務者)からの返済が滞った場合には、銀行は保証人である消費者金融会社から返済を受けることになります。この金額が利用者の年収の3分の1を超えることも当然あり得ます。

そして、

民法459条1項「保証人が・・・主たる債務者に代わって弁済をし・・・たときは、その保証人は、主たる債務者に対して求償権を有する。」

とされています。

銀行カードローンで言えば、銀行に対し返済を行った消費者金融会社は、肩代わりした返済金を債務者に請求できることになります。

この時点で、銀行は既に返済を受けていますから、債務者(利用者)や消費者金融会社との間に法的関係はありません。

言い換えれば、

消費者金融会社が借入金額について債務者に返済を請求している」

という関係だけが残っています。

そうすると消費者金融会社が自ら貸し付ける際には利用者(債務者)の年収の3分の1を超える貸付けはできませんでした。

それが、

銀行カードローン

消費者金融が保証人

→(利用者による返済滞り)

消費者金融が銀行に返済

消費者金融が利用者に請求

というルートを辿ることによって、結局のところ消費者金融が年収の3分の1以上の額を利用者に貸し付けたのと同じ状況が出来上がってしまうのです。

このように、銀行カードローンを巡る問題は、貸金業法銀行法との間の総量規制規定の存否だけを見ても理解ができません。

お金の貸し借りは色々と仕組みが多く理解しにくく、議論が抽象的になりがちです。

しかし、上記のように、民法等のおカネの貸し借りの基本的な仕組みを知っておくと、かなり具体的で有益な議論ができます。

 

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